第8話 静かな決意と、はじまりの鐘
祭りの喧騒が町を包み込む昼下がり。
アメリアは宿の窓から、遠くに揺れる色とりどりの旗を見つめていた。子供たちの笑い声が風に乗って届き、焼き菓子や香草の匂いが空気に混じっていた。
扉を閉めたあと、エリオットは何も言わずに去っていった。
けれどその背中には、これまでと違う何かが宿っていた。
アメリアの中でも、同じように何かが変わり始めていた。
「そろそろ、顔を出してきたら?」
階下から女主人の声がした。
アメリアは返事をせず、そっと立ち上がる。鏡の前で服を整えると、肩に力が入りすぎていないことに気づいた。自分が、自分でいられる――その感覚は久しく忘れていたものだった。
広場に着くと、鮮やかな布をまとった屋台が連なり、菓子や果実酒、手作りの小物が売られていた。人々の顔には、素朴な笑顔が絶えなかった。
「アメリアさーん!」
その声に振り向くと、ユリアンが両手いっぱいに荷物を抱えて駆けてきた。
「これ、屋台からの差し入れっす。あと、あっちのゲーム屋台で手伝ってほしいって頼まれて……というわけで、助けてくれません?」
「ゲーム……?」
「木の輪を棒に投げて当てるだけです。簡単、簡単」
彼の明るさに押され、アメリアは笑って頷いた。
手を貸しながら、町の人々の声や笑顔に触れていくうちに、心の奥のひっかかりが少しずつほぐれていくのが分かった。
やがて、小さな鐘の音が空に響く。
誰かが高台で、祭りの始まりを告げていた。
鐘の音を合図に、町の中心で踊り子たちが輪を作った。
色鮮やかなスカートがひるがえり、太鼓の音に合わせて足が鳴る。
通りの端から端までが祝福の空気に満ち、春の陽射しが布と髪と肌を金色に照らしていた。
アメリアは木陰に腰を下ろし、その光景を静かに見守っていた。
ユリアンはどこかへ駆けていき、子供たちはお菓子片手に走り回っている。誰もが、心からこの日を祝っていた。
「──君は、そこにいても目立つ」
その声に振り返ると、そこにはエリオットがいた。
午前の沈黙から、少しだけ間をおいての再会だった。
「……そうですか?」
「目立ってる。姿勢がいい。視線の流し方が王都のままだ」
彼は淡々とそう言って、隣の木の幹に背を預けた。
アメリアは一瞬だけ困ったように笑って、スカートの裾を軽く整えた。
「じゃあ、少し気を抜いてみます」
「抜きすぎると、君は転びそうだ」
「……どういう意味ですか」
「真面目すぎるという意味だ」
声の調子は変わらないのに、その言葉には微かな優しさが混じっていた。
エリオットは人を褒めるのが下手だ。けれどその不器用さが、なぜかアメリアには心地よかった。
ふと視線を空に上げると、風が飾り布を揺らしていた。
遠くで笑い声が跳ねるように響き、どこかで鐘がもう一度鳴った。
「この町に……来てよかったと、思いはじめています」
アメリアがそう言うと、エリオットは頷くでも、言葉を返すでもなかった。
ただ、隣に立ち続けていた。それだけで、彼の答えは十分だった。
日が傾きはじめ、空が茜色に染まる頃、祭りの熱気は少しずつ落ち着きを見せていた。
アメリアは木陰を離れ、広場をゆっくり歩いた。足元に転がる花びらと紙くずが、今日一日の賑わいを物語っていた。
宿の前まで戻ると、女主人が椅子に腰掛けて、ぼんやりと空を見ていた。
アメリアが近づくと、彼女は気づいて軽く手を振る。
「楽しかった?」
「……はい。とても」
その返事に、女主人は静かに頷いた。どこかほっとしたような顔だった。
「町の人たち、あなたのこと、ちゃんと見てるわ。最初は遠巻きだったけど、もうみんな知ってる。“ここに住んでる子”って」
「……そう、ですか」
胸の奥で、何かがほどけたような感覚があった。
拒絶でも同情でもない、まっすぐな視線の中に、自分の輪郭が少しずつ馴染んでいく。
「あなたが笑ったの、あの子も見てたわよ」
「……え?」
「領主様。あの無口な人。さっき、あなたが子供に髪飾りを渡したとき、遠くから見てた。目元が、ちょっとだけ優しかった」
言われてみれば、あの瞬間、何かの視線を感じていた気がする。けれどその視線が、自分を傷つけようとするものではなかったことが、いまは確信できる。
「……今日はよく眠れそうです」
そう言って笑うと、女主人もつられるように微笑んだ。
その夜、アメリアは久しぶりに夢を見なかった。
静かな夜風が窓を揺らし、遠くで祭りの余韻が囁いていた。
心の中に芽吹いた小さな決意。
それはまだ言葉にはならなかったけれど、確かに、根を張りはじめていた。