第7話 歪な来訪者
春祭り当日の朝。空は見事に晴れ渡り、町中に華やかな飾りつけがほどこされていた。
アメリアは宿の窓から通りを眺めながら、指先でそっとカーテンの端をつまんでいた。笑い声が交差し、子供たちの足音が軽やかに響いてくる。けれど、その賑わいの輪に加わるには、ほんの少しだけ心が追いついていなかった。
「お祭り、行かないの?」
食堂で朝食の用意をしていた女主人が声をかける。
アメリアは顔を上げ、微笑みながら首を傾げた。
「……もう少しだけ、このままで」
「いいけど、今日は忙しいわよ。あの子たちも来るし、屋台も始まるし、きっと広場は大騒ぎ」
アメリアは「そのうち出ます」と小さく返し、湯気の立つカップを両手で包んだ。甘いハーブの香りが鼻腔に広がり、微かに鼓動が落ち着いていく。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「お届け物でーす」
その声に、女主人が手を拭きながら応じる。
「はいはい、今開けますよ……」
開けられた扉の先にいたのは、見慣れた配達員ではなかった。
立っていたのは、浅黒い肌に高級な外套をまとった青年だった。
整いすぎた顔立ちと、油断のない視線。そして、口元には笑みのようでいて何も笑っていない線が刻まれていた。
「ああ……これは、久しぶりだね。アメリア嬢」
声をかけられた瞬間、カップを持つ手がぴたりと止まった。
女主人が不審そうに視線を投げるが、アメリアは立ち上がり、その男を見つめた。
「……アルフレッド様」
数か月ぶりに聞く名。数か月ぶりに見る顔。
心が凍るような感覚が、皮膚の下を這い回る。
町の空気は、春祭りの喧騒に満ちている。
けれど彼の存在だけが、そこから切り離されたように浮いていた。
「君がこんなところにいるとはね。まったく予想外だよ」
アルフレッドはそう言って笑った。笑っているのに、その声のどこにも温度がなかった。
アメリアは言葉を返さなかった。ただ、その場に立ち尽くしたまま、彼の姿を見据えていた。
数ヶ月前、あの夜会の真ん中で婚約を一方的に破棄されたときの感触が、掌の裏から滲み出すように蘇る。喉の奥に張りついた何かがうまく剥がれず、言葉が出てこない。
「心配していたんだ。あれから姿が見えなくなってね。さすがに少しは……責任、感じていた」
その声音は芝居がかった優しさを帯びていた。
アメリアは小さく首を横に振った。拒絶の意思を込めて。けれど、アルフレッドはまるでそれに気づいていないかのように、もう一歩踏み出した。
「僕は、君がまだ王都にいるとばかり思っていた。まさか、こんな……辺境で暮らしていたとは。正直、驚いたよ」
その「辺境」という言葉に、アメリアの胸の内で何かが静かにさざめいた。
この町を、彼は“こんなところ”と表現した。
自分にとってはようやく見つけかけていた場所だったのに。
「……何をしに来たのですか」
声に出してみると、自分でも思ったより冷静だった。
アルフレッドはわざとらしく肩をすくめて見せる。
「お祝いだよ。君が無事だったことに、安心して。もちろん、少し後悔もしてる。あのときの判断が……早計だったのではないかって」
「遅すぎます」
遮るように言ったその言葉は、鋭くて、自分でも驚くほど強かった。
アルフレッドの目がわずかに細められる。
「もう遅いのです、アルフレッド様。あなたが後悔しようとしまいと、私には何の関係もありません」
そう言った自分の声は、少しだけ震えていた。けれど、目だけは逸らさなかった。
扉の向こうの春の光が、彼の外套にうっすらと影を落とす。その影が、まるでこの部屋の空気をひときわ重くしているようだった。
そのとき、背後からもうひとつの足音が近づいた。
重くもなく、軽くもなく。けれど、確かにこちらに向かってくる、馴染んだ気配。
女主人が一瞬だけ視線を横に動かし、微かに息を呑んだ。
アメリアが振り向く前に、その声が届いた。
「……ここにいたか」
その低く静かな声に、アルフレッドの口元がわずかに歪む。
そしてアメリアの鼓動が、かすかに速まった。
扉のそばに立っていたのは、エリオットだった。
外套の襟に微かに土埃がついている。片手には手袋を持ち、もう片方はゆっくりとアメリアの方へ向けられていた。
その視線は静かで、だが間違いなく彼女を守る位置にあった。
「何の用だ?」
その短い問いに、アルフレッドは眉をひそめることもなく、余裕の笑みを浮かべて言った。
「君がここの領主代行か。……いや、僕はただ、旧知の女性に挨拶に来ただけだ。責められるようなことは何一つしていないよ」
「挨拶は済んだようだ」
エリオットの声には何の抑揚もなかった。けれど、ほんの少し語尾に含まれる圧に、アルフレッドの頬から笑みが削られていく。
アメリアは自分の中に、奇妙な冷静さが広がっていくのを感じていた。言葉のやり取りよりも、むしろ空気の質が変わっていくのを肌で感じていた。
「そろそろ、出て行ってください」
その言葉を発したのは、アメリア自身だった。声に棘はなかった。ただ、それ以上何も話す必要がないという断絶の響きだけがあった。
アルフレッドは何かを言いかけたが、口を閉じた。
そのままゆっくりと踵を返し、外へと歩き出す。
扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返る。
「君が、どこで何を選ぼうと……覚えておくよ、アメリア」
それだけ言い残し、彼は去った。
扉が閉まったとき、部屋の空気がふっと軽くなった。
アメリアは知らず知らずのうちに強く握りしめていた手を開いた。指先に残る爪の跡が、妙にくっきりしている。
エリオットが何も言わずに立っているのがわかった。
視線を向けると、彼の目はただ静かに彼女を見ていた。
「……すみません。取り乱しては、いないつもりですが」
そう言うと、エリオットは一歩だけ近づき、ぽつりと呟いた。
「誰が来ても、君は変わらない。それでいい」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
今すぐに泣きたくなるほどの、安堵と静かな誇り。けれど涙は出なかった。代わりに、アメリアは小さく、けれど確かな声で返した。
「はい……ありがとうございます」
外では祭りの太鼓が鳴り始めていた。
けれどこの部屋の中は、まだ静かなままだった。
二人の間に流れる沈黙が、どこか、祝福に似ていた。