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第6話 静寂の中の微笑み

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を柔らかく照らしていた。

アメリアはベッドの上でゆっくりと身を起こし、まだ残る眠気を押しのけるように背筋を伸ばした。肌にかすかに触れる春の空気はひんやりとしていて、思わず肩をすくめる。


前日の散歩のことが、まだ身体の奥に温もりのように残っている。エリオットと並んで歩いたあの静けさ、言葉少なだったけれど確かに心が触れ合ったような感覚。それは夢のようでもあり、確かに現実でもあった。


窓を開けると、朝露に濡れた草の匂いがふわりと鼻先をくすぐった。町の空気はいつも静かで、どこか懐かしい。遠くで薪を割る音と、小さな子供の笑い声が重なり、アメリアの胸の奥にやさしい波が広がっていく。


階下へ降りると、食堂では女主人が朝食の準備をしていた。カウンターには湯気を立てるスープと、香ばしい焼きたてのパンの香りが漂っている。


「おはよう、アメリア。よく眠れた?」


「ええ、おかげさまで」


二人の間に流れるこの何気ないやりとりが、いつのまにか日常になっていることに気づいて、アメリアは内心で小さく驚いた。


テーブルにつき、スープにスプーンを差し入れる。とろみのあるそれが器の底でやわらかく揺れ、鼻先に野菜とハーブの香りが立ち上る。口に含むと、塩気よりもまず温かさが舌に触れた。


「今日ね、広場で春祭りの準備があるのよ」


女主人がぽつりと告げる。


「もし暇なら、覗いてきたら? たぶん、あの子も来るんじゃないかしら」


「あの子?」


「……ほら、例の“静かな人”。」


アメリアは返答せず、そっと唇にスプーンを運んだ。熱が胸の奥でじんわりと膨らんでいくのを感じながら、彼女は微かに笑った。


広場ではすでに、春祭りの準備が始まっていた。


屋台の骨組みを組み立てる男たちの声。布を張る女性たちの手つき。色とりどりの花飾りが風に揺れ、辺境の町らしい素朴な華やかさが広がっていく。アメリアは通りの隅を歩きながら、その風景を少し距離を置いて眺めていた。


誰かに混ざるには、まだ勇気が足りなかった。けれど、こうして眺めているだけでも、どこか心が軽くなる気がする。


「……お嬢さん」


ふいに声がかかって振り返ると、ユリアンが手をひらひらと振っていた。肩に木箱を担ぎ、腕には釘袋を巻きつけている。


「また何か壊したんですか?」


からかい半分でそう返すと、彼は肩をすくめて笑った。


「いやいや、今日は壊さない日って決めてるんで。むしろ飾りつけ担当ですよ。僕だってやる時はやるんです」


「それは楽しみですね」


アメリアが微笑むと、彼は何か思い出したように顔をしかめた。


「あ、でも花を落としてしまったらしくて……あの、もし時間があるなら、一緒に拾ってくれません?」


「……どこに落としたんです?」


「そこら一帯……です」


彼の言葉に、アメリアは思わず吹き出した。笑ったのが自分でも自然すぎて少し驚く。けれどユリアンはまるで気にした様子もなく、「じゃ、こっちです」と元気に歩き出した。


通りの脇に落ちていた造花を拾いながら、アメリアはふと空を見上げた。雲一つない青が、彼女の瞳の奥に深く染み込んでいく。


かつての日々では、笑うことすら慎重に選ばなければならなかった。けれど今は、誰かの軽口に素直に笑い、歩きながら花を拾うだけで一日が始まっていく。


こんな些細な時間が、こんなにも愛おしく思えるのは、きっと──


──きっと、もう「元の場所」には戻れないのだと、そう思った。


花を拾い終えて顔を上げると、向かいの通りに立つひときわ目立つ影に気づいた。無言で、けれど真っ直ぐにこちらを見ているその人物を目にした瞬間、アメリアの背筋にひやりとした緊張が走る。


エリオットだった。


いつも通りの静かな佇まいで、けれどその目は、遠くからでも確かに彼女を見据えていた。目が合った瞬間、彼の足がわずかに動いた。その一歩が妙に静かで、妙に確かだった。


「ちょっと行ってきます」


ユリアンに声をかけ、アメリアは広場を抜けて彼のもとへと歩き出した。歩幅は自然と揃い、やがて二人の距離が数歩分に縮まる。


「……準備、賑やかね」


「ええ、楽しそうでした」


どちらも、言葉を選ぶような口調だった。けれど、どこかで言葉よりも沈黙の方が雄弁であると、互いに知っていたのかもしれない。


「少し、歩かないか」


「……はい」


頷くと、エリオットは言葉を足すこともせず、ゆっくりと町の外れへ向かって歩き出した。


すれ違う人々が笑い声をあげ、屋台の準備が進んでいく音の中を抜けていく。アメリアは彼の後ろ姿を見つめながら、その背中が前よりも少しだけ近く感じられることに気づいた。


町の端、小高い丘のふもとに立つと、風が草をなでるように吹いていた。昼の光がそのまま草花にこぼれて、あたりがぼんやりと金色に染まる。


「この辺り……お気に入りなんですか?」


エリオットは少し考えてから、ぽつりと答えた。


「……静かだからな。誰も追ってこない」


その言葉に、アメリアの胸が少しだけ締めつけられる。けれど、返す言葉は見つからなかった。だから彼女は、黙って隣に立ち、同じ風を感じた。


しばらくして、彼が静かに口を開く。


「この町で……何か、見つけられたか?」


その問いは曖昧だった。けれど、彼の目はまっすぐにこちらを見ていた。だからアメリアもまた、言葉を選ばずに答えた。


「まだ、はっきりとは。でも……たぶん、何かが始まっている気がします」


その答えに、彼は微かに目を細めた。ほんの一瞬だけ、口元が柔らかく緩んだようにも見えた。


風が、二人の間を優しく通り抜けた。その音は、まるで誰かの名をそっと呼ぶようだった。


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