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第5話 彼の名前を、風が運んだ

数日ぶりの晴天に、町は明るくざわめいていた。石畳にはまだ雨の名残が残っていたが、陽の光に照らされるとその湿り気すらも清らかに映る。アメリアは宿の外に立ち、顔に当たる光をゆっくりと受け止めた。暖かくはなかったが、冷たさも消えていた。


「今日もいい天気だねぇ」


顔なじみになりつつある果物屋の老婦人が声をかけてくれる。アメリアは微笑んで会釈を返し、店先の並ぶ果実に目をやった。柑橘に似た丸い果物から、甘く淡い香りが漂っている。


「これ、皮ごと煮るといいジャムになるんだよ」


手に取った果実の重さを確かめながら、アメリアはふと、宿の食堂でこの香りが広がったらどうだろう、と考えた。何かを「作る」ことに対して、以前の自分はそれほど興味を持っていなかったはずなのに。


宿へ戻る道すがら、小さな広場の片隅に目を留める。そこでは数人の子どもたちが地面に棒で絵を描いていた。その中心にいたのは、先日かごを壊していた青年──ユリアンだった。


「やあ、お嬢さん。また会いましたね!」


彼は手を大きく振ってこちらに気づき、子どもたちの相手を中断して走り寄ってきた。


「今日は……子守りですか?」


アメリアの問いに、彼は苦笑いを浮かべながら頷く。


「ええ、まあそんなところです。親たちは畑や市場で忙しいんで、こうしてると少しは役に立つかなって。半分、遊びですけどね」


その無邪気な笑顔に、アメリアは自然と心がほぐれるのを感じた。彼のような明るさは、今の自分にとってありがたい存在だった。


「そういえば、あなた……お名前は?」


問いかけると、彼はきょとんとした顔をしてから、ぽんと手を叩いた。


「名乗ってなかったですね。ユリアン・クラウスです。木工職人見習い、役に立たないけど、まあ……町の皆には可愛がられてます」


「ユリアンさん……」


その名を繰り返すと、風が少し吹いて髪を揺らした。ユリアンは笑いながら子どもたちの方を振り返り、軽く肩をすくめる。


「でも、あんまり名前で呼ばれないんです。たいてい『あのうるさいやつ』って言われてる」


アメリアは思わず笑ってしまった。その瞬間、町の音や光が、いつもより近く感じられた気がした。


「クラウスさんって、職人の家系なんですか?」


アメリアがそう尋ねると、ユリアンは頭をかきながら少しだけ照れくさそうに笑った。


「ええ、まあ。親父も祖父も大工で。僕も一応、工具は握ってます。けど……細かい作業は苦手で、叩いたほうが早いって思っちゃうタイプでして」


「つまり、籠を壊すのは得意……と?」


アメリアが言葉を重ねると、彼は一瞬の間をおいてから爆笑した。声が広場に響き、近くで遊んでいた子供たちが何事かとこちらを見てくる。


「やっぱりお嬢さん、面白い人ですね」


「そうは思いませんけど……」


それでも肩がわずかに揺れたのは、笑っていたからだ。こんなふうに声を出して笑うのは、いつ以来だろう。アメリアは少し遠い気持ちで自分の胸に手を当てた。


そのとき、広場の外れから別の足音が近づいてきた。鋭い気配に気づいたユリアンが、さっと立ち上がる。


「おっと、来たみたいですね。……領主様のお通りだ」


アメリアが顔を上げると、そこにはエリオットの姿があった。今日も変わらぬ無表情で、けれど周囲に自然と空気を緊張させるような静けさをまとっていた。


「何をしている」


低く通る声が、空気の色を変える。ユリアンが気まずそうに笑った。


「子供たちの見張りっす。……あと、ちょっとお嬢さんと立ち話を」


エリオットはそれ以上何も言わなかった。ただアメリアの方にゆっくりと視線を向ける。その目の奥に何か言いかけたような、けれど結局口に出さないままの何かが宿っている気がした。


「用がある」


「……私に、ですか?」


アメリアの問いにエリオットは頷いた。そして一言、迷いなく続けた。


「時間があるなら、町の外を歩かないか」


その唐突な申し出に、一瞬、思考が止まる。隣でユリアンが「おお……」と声を漏らしているのが耳に入った。


「……はい。少しだけなら」


言葉を発する自分の声が静かに震えていたことに、アメリア自身が一番驚いていた。


エリオットは何も言わずに踵を返した。少し遅れてアメリアも歩き出す。広場を出るとき、背後からユリアンの声が聞こえた。


「いってらっしゃい、アメリアさん!」


その呼びかけに振り返ることはせず、けれど確かに笑みだけは、唇の端に残っていた。


町を抜けると、緩やかな丘陵地帯が広がっていた。草花がまだ濡れた土の匂いを放ち、風が静かに吹き抜けていく。エリオットは何も言わずに先を歩き、アメリアは少し距離を保ってその背中を追った。


「この辺り、まだ馴染みがなくて……」


そう言っても、彼は振り返らなかった。けれど、歩調がほんの少しだけ緩んだのをアメリアは感じ取った。彼なりの、返事だったのかもしれない。


丘の頂に立つと、リリエルの町が一望できた。煙を上げる屋根、並んだ畑、小さな教会の尖塔。どれも静かで、けれど確かにそこに「生きる営み」があった。


「きれい……ですね」


アメリアの声に、エリオットは少しだけ視線を動かした。風が二人の間を吹き抜け、背中の方で木の葉がささやく。


「町の人間は、ここから見える景色を宝にしてる」


「宝……」


「何があっても、ここがある。それだけで、踏ん張れると言う」


エリオットの言葉は短く、乾いていたが、どこか奥に火を灯したような静かな熱を持っていた。アメリアはその言葉を胸の中でゆっくりと繰り返した。


「……私は、まだ宝が何か分からないけれど」


「それでいい」


言葉を遮るようなその一言に、アメリアは目を瞬いた。エリオットは彼女の方を初めてしっかりと見つめた。灰色がかった瞳の奥に、沈黙を通してしか伝えられない何かが潜んでいた。


「失って、まだ癒えてない者に、無理に何かを掴めとは言わない」


その静かな言葉に、喉の奥がきゅっと締めつけられた。息がしにくくなる感覚に似ている。けれど、それは苦しさではなかった。


「……ありがとうございます」


小さな声で答えると、エリオットはわずかに頷いた。風が吹き、アメリアの髪が頬をかすめた。彼の視線がそれを追った気がして、胸の奥に何かが灯る。


そのまま二人はしばらく言葉を交わさず、ただ遠くの景色を見つめていた。沈黙は重くもなく、軽くもなく、ただそこに在るものとして二人の間にあった。


帰り道、エリオットは何も言わずにアメリアより一歩先を歩いた。けれど、時折彼が振り返っていることを、アメリアは風の動きで感じていた。名前を呼ばれたわけではない。でも、それでも、確かに彼の注意は自分に向いていた。


──彼の名前も、風も、今日はなぜか心に残っていた。

静かな一日が、終わろうとしていた。


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