第4話 雨の日の温かな約束
朝から降り続く雨が、窓の外の町並みを濡らしていた。軒先から滴り落ちる水滴が、地面に小さな音を立てる。アメリアは宿の食堂でカップを両手で包み、じっと外の様子を眺めていた。灰色に霞む世界はどこか夢の中のようで、遠い記憶を呼び覚ます。
「今日はずっと降るかしらね」
女主人が窓越しに空を仰ぎ、小さくため息をついた。宿泊客の姿はまばらで、静かな空間に雨音だけが広がっている。アメリアは窓枠に指を伸ばし、冷たいガラスを軽くなぞった。
「雨は……嫌いではありません」
ぽつりと呟くと、女主人は微笑みながらアメリアを見つめ返した。
「そういう人、意外と多いのよね。雨の日って、なんだか心が落ち着くわ」
その言葉に、アメリアは頷いた。確かに雨の日には、外の世界と自分の心との間に薄い膜が張られ、少しだけ心が穏やかになる気がした。ふと目を落としたテーブルの上に、小さな紙の束が積まれていることに気付く。
「これは……?」
「ああ、それね。市場で余った紙をもらったの。子供たちに何か書いてあげようかと思って」
「……手伝わせてもらえますか?」
咄嗟に出た申し出に、女主人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「もちろんよ。あなたの字、とても綺麗そうだから」
照れくさいが嬉しくて、アメリアは紙を一枚手に取った。指先で触れると、少しざらついた紙質が心地よく伝わってくる。窓を叩く雨の音を聞きながら、彼女はゆっくりとインクを紙に走らせた。
最初に書いたのは、小さな詩だった。昔、乳母が教えてくれた、雨の日に読む小さな詩。ペンを持つ指が微かに震える。書き終えた言葉を見つめていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……素敵ね」
女主人が肩越しに詩をのぞき込み、小さく呟いた。その声に促されるように、アメリアはもう一枚紙を手に取った。
雨の日、静かな部屋に響くペンの走る音。自分が何かを作り出しているという小さな感覚が、心を満たしていく。それは今まで知らなかった、小さくて確かな喜びだった。
午後も雨は静かに降り続いていた。書き上げた詩や短い物語を紙に挟み終えると、アメリアはひと息ついた。指先についたインクを小さな布で拭い、窓の外に視線を向ける。薄暗く霞む空の下、町の輪郭がぼんやりと溶けて見える。
「少し休んだらどう?」
女主人が温かい紅茶を差し出してくれた。カップを受け取ると、手のひらに温もりがじんわりと広がる。
「ありがとうございます」
紅茶の湯気に触れ、ほっとした瞬間、宿の扉が静かに開く音がした。顔を上げると、ずぶ濡れになったエリオットがそこに立っていた。黒い外套から水滴が床に滴り落ちている。
「あらまあ、そんなに濡れて」
女主人がタオルを手渡すと、彼は小さく頷き礼を告げた。その様子をアメリアは黙って見つめていたが、視線に気づいたエリオットが目を細めた。
「……何か?」
「いえ、風邪をひかないかと思って」
言葉にした後で、咄嗟に顔が熱くなるのを感じた。だがエリオットは無言で軽く肩をすくめただけで、椅子を引いて向かい側に腰を下ろした。彼の髪から落ちる水滴が、テーブルに静かに広がるのを見ているうちに、何か言葉を探したくなった。
「今日は……ずっと外に?」
「ああ、少し町の見回りを。特に問題はなかった」
彼の視線がテーブルの上の紙に注がれた。その目はいつも通り無表情に近いが、どこか興味を示しているようにも見えた。
「子供たちに渡す詩やお話を書いていたんです」
説明すると、エリオットはわずかに眉をひそめた。
「……そうか。君は文字を書くのが得意なのか?」
「得意かどうかは分かりませんけど……昔から、好きでした」
「そうか」
エリオットはそれきり黙り込んだ。だが、沈黙は決して気まずくなく、むしろ穏やかな空気がそこに満ちていた。彼の視線は再び窓の外へと向けられ、雨が窓を滑り落ちる様子をじっと追っているようだった。
アメリアもまた紅茶を口に運びながら、彼の横顔を密かに見つめていた。その静かな横顔は雨の日の空気に溶け込み、なぜか心を落ち着かせた。こんなふうに時間を共に過ごせることに、不思議な安堵と温かさを覚えながら。
夕暮れが近づくにつれ、雨足は次第に弱まっていった。空の雲が薄くなり、僅かに青みが覗く。エリオットは濡れた髪を軽くかきあげ、静かに席を立った。
「帰るのですか?」
アメリアが思わず声をかけると、エリオットは足を止めた。ゆっくりと振り返り、彼女の瞳をじっと見つめる。
「ああ、まだ仕事が残っているから」
わずかな沈黙が流れ、言葉の続きを探そうとするアメリアの指先が、不安げにテーブルの端をなぞった。
「また、来てくれますか?」
言葉にした後、自分の大胆さに驚いて胸が熱くなった。エリオットはその問いに一瞬目を細めたが、やがて静かな声で返した。
「……もちろん」
彼が宿を出て行く後ろ姿を見送りながら、アメリアは胸の奥で小さな火が灯るのを感じた。その小さな約束が彼女にとって、どれほど大切なものになったのか、自分でも不思議だった。
「良かったわね」
女主人がアメリアの肩をそっと叩き、小さく微笑んだ。
「はい……」
かすかな返事とともに微笑むと、アメリアは再び外に視線を向けた。空気にはまだ湿気が残り、地面から立ち上る土の匂いが雨上がりの余韻を伝えていた。
しばらくすると、雲の隙間から柔らかな夕陽が差し込み、濡れた町並みが静かに輝き始めた。アメリアは立ち上がって扉の外に出た。頬に触れる湿った風が心地よく、深く息を吸い込んだ。
町は穏やかで優しく、何もかもが新鮮に感じられた。彼女の中で、リリエルという町はただの居場所から、少しずつ確かな「帰る場所」になろうとしていた。
「あしたは晴れるかしら?」
ふと呟いた言葉に、後ろから女主人の穏やかな声が返ってきた。
「きっとね。雨のあとには、きっと晴れが来るものよ」
その言葉を胸に抱きしめ、アメリアは小さく頷いた。自分の中にもいつか、晴れやかな日が来ると信じて──。