第31話 開かれた眼、閉じられた声
“それ”は、確かに存在していた。
形は曖昧だった。人のようで、人ではなく。
目があるようで、目ではない。
けれど、アメリアははっきりとわかった。
──視られている、と。
それは敵意でも、好奇でもなかった。
ただ、“在る者が、在る者を確認する”ときに生じる、静かな交差。
「……あなたは、ずっとここにいたんですね」
言葉は声になったかどうか分からない。
でも、届いた気がした。
水底のような空間に、小さく波紋が広がる。
その存在は、動かなかった。けれど、わずかにかたちが“揺れた”。
それは、応えだった。
「私は、この町に立つ者として、あなたを見に来ました。
閉じたものを開くためではなく、見届けるために」
その瞬間、アメリアの目の前に、幾つもの光の粒が立ち上がった。
それは記憶だった。
誰かが見た過去。町が感じた痛み。
かつて灯りたちが、“ある存在”を迎え入れ、そして拒んだ、その記録。
──選ばなければならなかったのだ。
町の輪郭を守るために、“ある一部”を切り離すという選択を。
アメリアは思わず膝をついた。
その決断の重みが、波のように押し寄せてきたのだった。
“それ”は動かず、ただ記憶を見せていた。
誰かが叫び、誰かが祈り、誰かが背を向けた。
町の土台が揺らぐほどの激しい“揺れ”ではなく、
小さく、けれど確かに境界を染め変えていくような、静かな崩れ。
──これが、“灯り”が拒んだもの。
それは明確な悪ではなかった。
破壊を望むものでもなかった。
ただ、あまりに“深くあろうとした”ために、この町の均衡からはみ出してしまった何か。
「あなたは、傷つけようとしたわけじゃなかったんですね」
アメリアはそう呟いた。
声は空間に吸い込まれたが、反応が返ってきた。
“それ”が揺れ、微かに色を持つ。
──理解された、という手応え。
「でも、町はあなたを“外側”に置いた。
この町を保つためには、“あなたの深さ”を内側には抱えきれなかったんです」
その言葉に、自分でも胸が軋んだ。
“理解してしまった側”の痛み。
それはただの共感ではなく、“自分がいずれ選ぶかもしれない立場”への予感だった。
「私は、あなたを解放しに来たのではありません。
でも、ここにいるあなたを、“ただ閉じたまま”では終わらせたくない」
言い終わる前に、“それ”が形を変えた。
まるで、少しだけ微笑んだように。
それは、わずかな希望だった。
あるいは、受け入れられるという記憶の可能性。
アメリアの胸に、静かに波が寄せていた。
水面はもう、ただの鏡ではなかった。
そこには、町の記憶だけでなく、“閉じられた存在”の意志が映っていた。
──灯りは、見るだけでいいのか?
その問いは、外からではなく、アメリアの内側から届いていた。
町の奥底に沈むこの存在は、祈っていた。
拒絶されたあとも、怒りも悲しみも抱かず、ただ黙ってここに在り続けていた。
「あなたの“声”を、聞きます」
アメリアは言った。そうせずにはいられなかった。
「私は灯り。見る者、照らす者、そして時に、傍にいる者。
この町があなたを閉じた理由は、きっと今の町も覚えている。
でも……それでも、私はここに来た。あなたを見て、触れて、
“もう一度、あなたを語る”ために」
その瞬間、水の底から、ひと筋の光が立ち上がった。
それは叫びではなかった。
悲鳴でも、命令でもなかった。
──ただ、ひとつの“ありがとう”だった。
アメリアはそれを、全身で受け止めた。
そして、視界がふたたび反転した。
空間がゆっくりと戻り、身体の重みが戻り、
水面の上へと、彼女は浮かびあがった。
地の底の“沈黙”は、まだ深く続いていた。
けれどその表面には、確かに小さな音が灯っていた。
──それは、声にならなかったもののために灯った、“もうひとつの灯り”だった。




