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第3話 小さな始まりと、パンの香り

朝、アメリアは鳥の鳴き声で目を覚ました。窓から差し込む淡い光が、部屋の床を静かに照らしている。目を開けたまましばらくじっとしていると、外からパンを焼く匂いがふわりと漂ってきた。鼻腔をくすぐるその香りに誘われるように、彼女はゆっくりと体を起こした。


服を整え、洗面器の水で顔を濡らす。冷たい水に触れた瞬間、身体の芯まで目が覚めた気がした。鏡代わりの小さな銅板に映った自分の顔は、ほんの少しだけ昨日より柔らかく見えた。


食堂へ降りると、すでに数人の宿泊客が朝食を取っていた。炉の中でぱちぱちと火が音を立て、木の床が歩くたびに小さく軋む。


「おはよう、よく眠れた?」


女主人がパンを切り分けながら声をかけてくれた。その声に、アメリアは自然と微笑んで頷いた。


「はい、とても」


焼きたてのパンと温かいスープ。机の上に並べられた素朴な朝食は、豪華な晩餐よりも心にしみた。パンを噛みしめると、小麦の甘さが口いっぱいに広がる。どこか懐かしく、涙が出そうになるのをぐっと堪えた。


ふと、窓の外を見た。店先に子供たちが集まっている。まだ肌寒い朝の空気の中で、彼らは手を擦り合わせながら何かを待っているようだった。アメリアは女主人に目を向けた。


「あの子たちは?」


「近所の子たちよ。毎朝、焼き立てのパンの端っこを分けてあげてるの。小さいけれど、あの子たちにとっては立派な朝ごはん」


それを聞いた瞬間、アメリアの胸の奥で何かが静かに動いた。今までの暮らしでは出会えなかった、あたたかい営み。言葉にするには小さすぎる感情が、体の中をゆっくりと満たしていった。


「……素敵ですね」


ポツリと漏れたその言葉に、女主人は照れたように肩をすくめた。


「さ、あなたも落ち着いたら町の中を歩いてきなさいな。まだ何も見てないでしょう?」


頷きながら、アメリアは手の中のマグカップを包み込んだ。熱が手のひらに移ってくる感覚に、確かに「ここで生きる」という実感が芽生えはじめていた。


午前の光が町に差し込むころ、アメリアは宿の扉を静かに開けて外に出た。まだ肌寒い春の空気が、袖の隙間からするりと忍び込む。深く息を吸い込むと、草と石と遠くの薪の匂いが混ざった、辺境特有の香りが胸いっぱいに広がった。


通りはゆったりとした時の流れに包まれていた。露店では果物や布を並べる人々が準備を進め、遠くから木槌の音が響いてくる。屋根の上で洗濯物が風に翻り、小さな子供たちが井戸の水を汲んで遊んでいる。


アメリアは道の端を歩きながら、石畳の感触を足裏で確かめるようにゆっくりと歩を進めた。誰も彼女を知らず、誰にも見られていない感覚。それは不安ではなく、不思議な安堵を彼女にもたらしていた。


小さな広場に差しかかったとき、店の前で声を荒げている老婆と青年に目が留まった。青年は背が高く、濃い茶色の髪を無造作に撫でつけている。手には壊れた籠を持っており、どうやら修理を引き受けたものの仕上がりに問題があったようだった。


「ちゃんと直すって言ったじゃろうが、このままじゃ卵が転がってまう!」


「……言い訳はしないっす。でも、竹が湿気てて……いや、はい、もう一度やります!」


青年の不器用な言い訳に、老婆が腕を組んでにらむ。アメリアは思わず笑いそうになった。だがそのとき、青年がこちらに気づき、目を細めた。


「あ、そこのお嬢さん。お困りなら案内しますよ、この町のことなら俺、だいたい分かりますから!」


唐突な呼びかけに一歩引きそうになったが、彼の顔には悪意も下心もなかった。ただ明るく、どこか犬のような人懐っこさがあった。


「……ありがとう。でも、まだ見て回っているだけだから」


やんわりと断ると、青年は「そっか」と笑って肩をすくめた。すると老婆がアメリアをちらりと見やって言う。


「その子は便利だけど雑なの。気をつけるこったよ」


「あ、ひどい!」


青年が抗議の声を上げたが、アメリアは微笑んだ。こうしたやりとりが町の空気に自然に溶け込んでいることに、どこか心が緩むのを感じた。


「じゃあ、またどこかで」


そう言って歩き出すと、青年が大声で返した。


「はい、お嬢さん、またどこかで!」


声が青空に吸い込まれていった。アメリアは足元に咲いた小さな花に目を落とし、その名前も知らないまま、そっと歩を進めた。


宿に戻ると、炉の火は少し弱まっていて、女主人が小さな菓子パンを袋に詰めていた。アメリアの姿を見て、彼女は顔を上げる。


「おかえりなさい。……どう? 町は」


「思ったよりも……ずっと優しい場所でした」


答えながら、自分でも不思議だった。声が自然に柔らかくなっている。ほんの数日前まで、誰にも心を開きたくなかったのに。


「あら、それはよかった」


女主人がカウンター越しに紙包みを差し出してくる。


「これ、今日のおやつ。歩き疲れたでしょ?」


中には、きつね色に焼けた小さなバタークッキーが入っていた。アメリアは受け取る手にそっと力を込めた。


「ありがとうございます。本当に、何から何まで……」


「礼なんかいらないわよ。あなたがここにいるってことが、私にとっても新しい風みたいなものなの」


その言葉に、アメリアの胸の奥にふっと火が灯るような感覚が広がった。自分が誰かの中に居場所を持てるのだと、初めて思えた気がした。


そのとき、宿の扉が再び軋み、誰かが入ってきた。振り向くと、エリオットだった。変わらぬ表情で、彼はアメリアに視線を向ける。


「少し、時間をもらえるか」


彼の声は変わらず低く、抑えられていたが、どこか昨日よりも柔らかさを帯びていた。女主人が奥へと引っ込み、食堂には二人だけが残された。


「この町での暮らしは……どうだ?」


問いかけたエリオットの視線を、アメリアは正面から受け止めた。


「まだ、始まったばかりです。でも……」


言いかけて、少しだけ唇を噛んだ。言葉にするにはまだ不確かだった。けれど、彼の目はそれを待ってくれているようだった。


「ここで、生きていけるかもしれないって。今日、少しだけ思えました」


静かに告げると、エリオットは目を細めた。ほんのわずかに、口元が緩む。微笑とは言えないほどの、小さな変化だったが、それがアメリアには十分だった。


「……それなら、よかった」


それきり、彼は何も言わなかった。だが、無言のまま、アメリアの前にある椅子を引いて腰を下ろす。その動作の音すら、今の彼女にはどこか心地よく響いた。


パンの香りがまだ、部屋の隅にほんのりと残っていた。


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