第21話 ひとつ、風が裏返る
翌朝、風の向きが変わっていた。
アメリアはいつものように窓を開けたが、頬に当たる空気が昨日とはまるで違っていた。
湿っている。生温い。けれど、それ以上に“何かの匂い”が混ざっている気がした。
焼けた鉄のような、あるいは火の気配のような──
言葉にならないが、確かに町の空気に異物が混じっていた。
「今日の風、いやな感じね」
女主人も同じことを言った。
その言葉に、アメリアはうなずきながらパンをこねる手を止めた。
「こういうときは、町の東に近づかない方がいいわ。昔から、何かあるときは東の境がざわつくの」
「……結界、の話ですか?」
「そうね。あれは見えないけど、町に染みついた“感覚”なのよ」
アメリアは粉のついた指先をぬぐい、黙って外の方を見た。
昨日、庁舎でエリオットと交わした言葉が頭をよぎる。
契約。境界。町の内と外。
そして、自分が“この内側にいる”こと。
何かが来る。
それはもう確信になっていた。
だからこそ、今日この町で何が起きるかよりも、
自分が“どう在るべきか”を問い直す必要があると、アメリアは感じていた。
午後、町の広場が妙に静かだった。
いつもなら子どもたちの声が飛び交い、屋台の準備が進んでいる時間帯。
けれど今日は、皆が“何かを感じ取っている”かのように、足音さえも控えめだった。
アメリアは市場の端を歩いていた。
何かを探していたわけではない。ただ、町の気配を確認したかった。
空気の濃さ。風の渦。人の呼吸。
「……アメリアさん!」
背後から声がかかって振り向くと、ユリアンが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「領主様が……丘の東に行ったそうです。ひとりで」
「どうして?」
「境界の近くで“何か”があったって。詳しくは分からないけど、兵のひとりが戻ってきて……顔が真っ青だった」
アメリアは言葉を失った。
ただ、手のひらがかすかに熱を帯びるのを感じる。
「私、行きます」
「待って、危ないって──!」
ユリアンの声を背に、アメリアは駆け出していた。
誰かが止めても、今は行かなくてはいけない気がした。
この町に“在る”と決めた以上、ただ見ているだけではもういられなかった。
丘の斜面を登る途中で、風が変わった。
たしかに吹いているのに、音がしない。
草も揺れているのに、ざわめきが耳に届かない。
まるで風だけが“異なる次元”を通って吹いているような、そんな不自然な静けさだった。
アメリアは足を止めた。呼吸が浅くなる。
けれど恐怖ではなかった。ただ、感覚が過敏になっているのを感じていた。
そのとき──視界の端に、揺らぎがあった。
丘の頂。そこに立っていたのは、エリオットだった。
彼は地面に何かの印を描いていて、その周囲の空気が、確かに波打っていた。
「……来るな」
エリオットの声が風に乗って届く。
けれどアメリアは止まらなかった。
足元の草が裂ける音。空気の重さが変わる気配。
そのすべてが、“この場所だけが切り取られている”証だった。
「わかっています。でも、私がここに来たのは……あなたがここにいるからです」
エリオットの指が止まった。
アメリアは彼のすぐ横まで歩き、足元に刻まれた線を見下ろした。
古い言語で描かれた術式。それは、町を守るための“結び目”だった。
「この式、ひとりじゃ保たないんですよね?」
「……お前は、術者じゃない」
「でも、“灯り”なんでしょう? いるだけで、闇のかたちを変えるって言ってくれたじゃないですか」
エリオットはアメリアを見た。
そして、ごく短く──ほんのわずかだけ、頷いた。
次の瞬間、空気が裂けた。
地の奥から、風とは違う“何か”が湧き上がってくる。
境界の外側で、何かが蠢いている。
アメリアは、ただその場に立ち続けた。
逃げなかった。見なかったふりもしなかった。
たとえ何が来ようとも、私はこの町の中にいる。
そう思えるだけの何かが、胸の奥で、確かに灯っていた。




