第20話 町の外、町の内
朝、窓を開けた瞬間、空気が違っていた。
肌を撫でる風が、湿っていた。
いつもより、冷たい。けれど冷気というほどでもない──
“どこか別の場所を通ってきた風”のようだった。
アメリアはしばらくその場に立ち尽くしたまま、宿の前の通りを見下ろしていた。
人の姿はある。屋台も開いている。笑い声も、遠くで響いている。
けれどそのすべてが“すこしだけ遠い”。
日常の仮面をつけたまま、何かを隠している。
「風の匂いが違うねえ」
果物屋の老婦人がぼそりと呟いたのは、その日の午前中のことだった。
「この感じは、何年ぶりかしら。あのときも、確かこんな匂いがしてたのよ」
「“あのとき”って……何が?」
「……忘れた方がいい話。でも、町はね、全部知ってるの。人より先に、空気が気づくのよ」
アメリアは何も言えなかった。
町の空気が変わっていく。けれど、それは恐怖ではなかった。
むしろ、自分の中に“呼び水のような感覚”があることに気づいていた。
何かを始めなければならない。
あるいは、何かに向けて自分を整えなければならない。
その気配だけが、風の中に混じっていた。
午後、アメリアは珍しくエリオットの庁舎を訪れた。
特に用があったわけではない。けれど、なぜか今は“立ち止まっていてはいけない”ような気がしたのだ。
それは焦りではなく、風の中に混じっていた“静かな緊張”に触れた者としての本能に近かった。
「……ここに、町の記録があると聞きました」
「ある。だが、全てを開示できるわけではない」
「わかっています。でも、“町が動いたときの記録”だけ、少しだけでも」
エリオットはアメリアを見た。
その視線は、試すようでも、疑うようでもなかった。
ただ、彼女が本当にそこまで来ているか──それを見ているようだった。
やがて彼は立ち上がり、棚の奥から古い帳面を一冊引き出した。
背表紙に年号だけが記され、色褪せた革の感触が時を物語っていた。
「これは、前の前の領主の時代。……この町に初めて“境界”という言葉が使われた年の記録だ」
ページを開くと、手書きの文字が並び、その合間に地図のような図が挿入されている。
町の輪郭、その外周に走る目に見えない線──
「これが、いま私たちが立っている“内”なんですね」
「そうだ。“町の内”は、結界というより、“契約”に近い」
「契約?」
「“この土地に、干渉しないこと”を条件に、外の存在と交わされた合意だ。……だから、破られたときの代償は大きい」
アメリアは指で、図の一点をそっとなぞった。
そこは、自分がよく行く丘の、すぐ外側だった。
「これは……何が起きた場所なんですか?」
アメリアの問いに、エリオットは帳面のそのページを閉じた。
「当時、“誰かが踏み越えた”とだけ、記録されている」
「誰か、とは……?」
「名前は書かれていない。あるいは、“名を持たない者”だったのかもしれない。
けれど、そのときに町の一部が“静かに崩れた”らしい。目に見える被害はなかった。でも、何かが変わってしまった、と」
アメリアは息を呑んだ。
「今、また同じことが起きようとしている……そういうことですか?」
「似ている。ただ、今回は町の“内側”にいる者の感覚が、それを先に捉えている。
つまり、町の“意志”が、既に反応しているということだ」
「町に……意志が?」
エリオットはそれに答えなかった。
けれど、黙ったままのその顔が、すでに“答えを知っている者の顔”に見えた。
アメリアは椅子から立ち上がった。帳面を一礼のように見てから、庁舎の外に出た。
風が、強くなっていた。
朝よりも湿り気を帯びていて、肌をなでる感触がひどく“異国的”に感じられる。
けれど、不思議と怖くはなかった。
むしろ、自分の中の何かが、呼吸の奥で確かに応えようとしていた。
──私は、この町の“内側”にいる。
そう思えたのは、たぶん今日がはじめてだった。
宿へ戻る道すがら、アメリアは通りの先に、小さな黒い影を見た。
ミレーナだった。
町を離れたはずの彼女が、境界のすぐ内側に立って、こちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼女は何も言わずに頷いた。
まるで──
「あなたは、ようやくここに来たわね」とでも言うように。




