第2話 辺境の町リリエルへようこそ
馬車が静かに停止したとき、アメリアは浅い眠りから覚めた。まぶたが重く、体中の筋肉が緩やかに痛んだ。馬車から降りると、初めて見る辺境の町――リリエルが目の前に広がっていた。澄んだ空気が頬を撫で、朝露に濡れた石畳が足元で静かに光っている。
建物はどれも素朴な造りで、木と石の質感が柔らかい印象を与えた。町を包む穏やかな静けさが、胸の中の不安を少しだけ薄めてくれた気がする。
「あの……ここで間違いないでしょうか?」
馭者に尋ねると、彼はただ軽く頷いて微笑んだ。何かを言いかけたが口を閉ざし、代わりに小さな会釈だけを返して馬車を走らせた。残されたアメリアは、不安を振り払うように軽く息を吐き出した。
荷物を手に取り、辺りをゆっくりと見回した。町の中心らしい広場には古びた噴水があり、緩やかな水音が静かに響いている。近くには小さな店がいくつか並び、焼き立てのパンやハーブの香りがふわりと漂ってきた。香ばしい匂いに誘われ、アメリアの胃が微かに鳴った。
「あら、旅の方?」
振り返ると、白いエプロンをまとった女性が店の軒先から微笑みかけていた。穏やかな笑顔に、アメリアの胸がふっと緩む。
「はい、今日からこちらで暮らすことになりました。あの、宿を探しているのですが……」
女性の笑顔が一層深くなった。
「それなら町外れの『花の家』がいいわ。あそこの主人は気さくで、旅の方も歓迎してくれるから」
親切な言葉に安堵し、アメリアは心から感謝を込めて頭を下げた。辺境の町はもっと閉鎖的な雰囲気かと思っていたが、その予想は静かに外れた。
「あの、ありがとうございます」
「いいえ、またお店にも来てくださいね」
女性の穏やかな声に見送られ、アメリアは教えられた方向へ歩き出した。朝の光が温かく背を押しているように感じた。これからの生活に、少しだけ明るい予感が生まれ始めていた。
「花の家」と呼ばれた宿は、町外れの緩やかな丘のふもとに建っていた。木造の二階建てで、壁には蔦が絡み、庭には季節外れの薄紫の花が風に揺れている。扉の前に立つと、軋んだような音を立てて扉が開き、年配の女性が顔をのぞかせた。
「あら……もしかして、公爵家のお嬢さんかい?」
声に含まれる柔らかな驚きに、アメリアは思わず背筋を伸ばした。だが女性はすぐにふわりと微笑み、手招きをする。
「まあまあ、そんな堅苦しい顔しないで。お入りなさいな。話はそれからよ」
アメリアはわずかに戸惑いながらも、促されるまま中に入った。宿の中は木の香りとほんのり甘い菓子の匂いに満ちていた。天井は低く、廊下は狭いが、どこか包まれるような温かさがあった。
「旅の疲れが顔に出てるわ。座って。ほら、お茶淹れるから」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、湯気の立つカップが目の前に置かれた。カモミールに似た優しい香りが鼻腔をくすぐる。
「この町で暮らすって聞いたけど、本当かい?」
女主人の問いに、アメリアは軽く頷いた。
「はい。こちらで、新しく……生活を始めようと思って」
言葉にした瞬間、胸の奥に小さな重みが落ちる。まだ「始める」と言い切るには、自分があまりに空っぽに思えた。それでも、女主人はその曖昧な覚悟を咎めず、ただ静かに頷いた。
「なら、まずは食べて、寝ることね。心の疲れも、体の疲れも、満たされてからじゃないと見えないものが多いものよ」
その言葉に、アメリアは目を伏せた。窓の外では、風に吹かれた洗濯物が淡く揺れていた。
「部屋、案内するわね。あなたには南側の部屋が合いそう。朝日が差すから、気持ちいいわよ」
廊下を歩くうちに、窓から町の一角が見えた。遠くで笑い声が聞こえ、子供たちの走る足音が追いかけるように響いていた。
案内された部屋に入ると、日差しのやわらかいカーテンが揺れていた。木製のベッドと、小さな机、それから白い花の刺繍がされたクッション。
──贅沢ではない。けれど、どこか懐かしい温もりがあった。
荷物を片隅に置き、ベッドの端に腰を下ろした瞬間、全身の力が抜けた。目を閉じると、遠くで誰かがパンを焼く匂いがかすかに届いてきた。
扉をノックする音で目を覚ました。うたた寝をしていたことに気づいたアメリアは、慌てて体を起こした。夕方の光が部屋の中に差し込んでいて、空気はほのかに黄昏の匂いを含んでいた。
「すまない。ここに泊まっていると聞いた」
低く、少しだけ掠れた男の声。扉を開けると、背の高い男が立っていた。黒に近い濃いグレーの髪に、冷めたような、けれどどこか物思いに沈んだ瞳。無口な人間だと一瞬でわかる、そういう佇まいだった。
「あなたは……?」
「エリオット・フェルディナンド。領主代行だ」
突然の訪問に戸惑いながらも、アメリアは軽く頭を下げた。彼の背後には細身の剣が揺れていたが、攻撃的な気配は一切感じなかった。ただ静かで、荒削りな風が彼の輪郭にまとわりついているようだった。
「町に来たばかりの貴族の娘がいると聞いた。確認に来た」
言葉は粗いが、目は真っ直ぐだった。アメリアは一呼吸おいてから頷いた。
「アメリア・ラングレイと申します。……元、公爵家の令嬢です」
「元、か。……そうか」
短く返したその声には、意外にも同情や皮肉の色はなかった。ただの事実として受け止めた声だった。アメリアはそれに少しだけ救われた気がした。
「なにか、町の決まりでも……?」
「いや。ただ、問題が起きぬよう先に顔を見ておこうと思っただけだ」
エリオットはそれだけ言って、踵を返そうとした。その背に思わず声をかける。
「この町は、暮らしやすいでしょうか?」
問いかけた自分に驚きながらも、アメリアはその返事をどこかで欲していた。エリオットは足を止め、わずかに振り返る。
「静かだ。慣れれば、よく眠れる」
それだけ言い残して、彼は去っていった。扉が閉まり、足音が廊下を離れていく。アメリアは、返された言葉の余韻を胸の内で転がした。
──慣れれば、よく眠れる。
たったそれだけの言葉なのに、どうしてこんなにも胸があたたかくなるのだろう。手のひらに残る微かな汗に気づき、彼女はそっと指先を合わせた。
見知らぬ町、見知らぬ人々。けれど、ほんの少しだけ、この場所で息をしていける気がした。ベッドに腰を下ろし、アメリアは小さく深呼吸をした。胸の奥に染みこむような、静かな確信とともに。