第15話 遅すぎた呼びかけに
その日は、どこか空の色が重かった。
雲が分厚く、光をはね返すような白さで町を覆っていた。アメリアは宿の窓からぼんやりと外を眺めていたが、その重さが気圧でも天気でもなく、自分の胸の奥から来ていることに、薄々気づいていた。
扉が叩かれたのは、午前も遅くなったころだった。
「アメリア嬢に、伝言です。訪問者がお待ちです」
女主人が顔をしかめて部屋を覗き込んだとき、すでにアメリアは胸のどこかで“誰か”を察していた。
町の宿屋の小さな応接室。その一番奥の椅子に、彼は座っていた。
アルフレッド。
以前と同じ貴族の礼装。整った金髪に翳りはなく、表情も冷たくはなかった。
けれど、彼の全てが“遅すぎる人間の香り”をまとっていた。
「久しぶりだね、アメリア」
「何のご用でしょう」
アメリアの声は驚くほど静かだった。
彼はその反応に少しだけ肩をすくめた。
「君に……謝りたかった。そして、話がしたかったんだ」
「話すことなど、もう残っていません」
「いや、残ってる。僕はずっと、何かが違っていたと感じていた。でもようやくわかったんだ。君がいないと、僕は──」
「やめてください」
はっきりと言った。はっきりと遮った。
「……今さら、何を言われても、もう私は」
その先を言う必要はなかった。
アメリアの声が、彼女のすべてを語っていたから。
アルフレッドの口元がわずかに揺れた。
かつては見たことのなかった表情。自信ではなく、動揺だった。
「……変わったね、君は」
「ええ。変わったと思います。ここに来て、ようやく自分で生きていると感じられるようになったから」
言葉は飾らず、まっすぐだった。
アルフレッドは目を伏せ、指先で膝の上をなぞるように動かした。
「僕は、君のそういうところを……今なら好きになれると思う」
その言葉に、アメリアの背筋が静かに震えた。
それは告白だった。遅すぎる、ひどく一方的な、勝手な感情の表明。
けれど彼は、自分の思いがどれほど時機を逸しているかを、きっとわかっていない。
「それは、“今の私”があなたの好みに合うというだけの話です。私は誰かの好みに合わせるためにここにいるのではありません」
「じゃあ、僕は……もう取り戻せないのか?」
「あなたは、私を失ったのではありません。最初から、見ていなかっただけです」
その言葉に、アルフレッドの顔から血の気が引いたように見えた。
「私は、王都には戻りません。あなたにも、もう二度と振り返ることはありません」
アメリアは立ち上がった。椅子のきしむ音が、部屋の空気を切る。
アルフレッドは立ち上がらなかった。いや、立てなかったのかもしれない。
「帰ってください」
そう告げてアメリアが扉を開けたとき、そこにいたのは──
エリオットだった。
「……彼を見送ってやれ」
エリオットの声は低く、けれど不思議な静けさをまとっていた。
「見送る価値のある別れではありません」
アメリアは一歩も動かなかった。
扉を開けたまま、エリオットの隣に立った。
アルフレッドの視線が、その二人の姿にぶつかって、どこにも行き場をなくしていた。
「……ああ、そうか」
彼がそうつぶやいたのは、自分の言葉というより、ようやく現実を知った誰かの声のようだった。
「本当に、終わったんだな」
アメリアは何も答えなかった。
アルフレッドは立ち上がり、ゆっくりと扉をすり抜けて去っていった。
その背中には、あの舞踏会の日にまとっていた王都の誇りも、令嬢を見下ろしていた優越も、もう何ひとつ残っていなかった。
静かに扉が閉まる音がして、部屋の中に沈黙が戻った。
アメリアは深く息を吐き、それからようやくエリオットのほうを見た。
「……聞いていましたか?」
「全部は」
彼の返答は相変わらず簡潔で、けれどその声の奥に、何か感情が染み込んでいた。
言葉にされない何かが、ゆっくりとアメリアの胸に降りてくる。
「過去と、向き合えたな」
「ええ。ようやく、終わりました」
「……なら、明日からまた、変わらずここにいればいい」
その言葉に、アメリアは小さく頷いた。
何かが終わった音はしなかった。
けれど、確かに、何かが閉じたのだと感じた。
そしてその手応えは、かつて自分の存在が誰かの意志に揺れていた日々とは、明らかに違っていた。
私は、もう“誰かに取り戻される”存在ではない。
私は、ここで生きていく。
それが、何よりの答えだった。




