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第13話 揺らぎは風のかたちで訪れる

数日ぶりの快晴だった。

昨夜まで町を包んでいた霧がすっかり晴れ、青空の下、屋根の瓦までくっきりと陽光に照らされている。

アメリアは、宿の裏庭で洗濯物を干しながら、小さく深呼吸をした。


「今日は、何も起きなければいいですね」


誰にともなくつぶやいたその言葉が、風に乗っていく。

けれど、それが小さな祈りであることは、自分自身が一番よくわかっていた。


ミレーナの言葉が、頭のどこかに引っかかっていた。

「この町はもうすぐ動く」──意味を探ろうとするたびに、心がざわつく。


「考えすぎないのが一番よ。あの人、昔からあんな調子だから」


そう言ったのは、女主人だった。いつものようにパンをこねながら、声だけで会話に入ってくる。


「ミレーナさんのこと、ご存じなんですか?」


「昔、ちょっとね。……まあ、“誰よりもよく見て、誰よりも黙ってる”ような人よ」


その言葉は、まるでエリオットのことを語るときのような含みがあった。

似ているのかもしれない、とアメリアは思った。

静かで、けれど誰よりも遠くを見ている。そういう人たちがこの町には、確かにいる。


「ねえ、アメリア」


「はい?」


「この町がもし、大きく揺れたとき……あんたは逃げる? それとも、残る?」


不意に投げられた問いに、手の中の洗濯バサミが小さく揺れた。

アメリアは一度だけ空を見上げ、それから静かに答えた。


「残ります。選んだのは、私ですから」


その言葉に女主人は何も言わなかった。

けれど、パンの生地を打つ音が、少しだけやさしく響いていた。


その午後、アメリアはエリオットの使いで、町外れの納屋へ薬草を届けに向かった。

手には小さな籠。中には乾燥させたばかりのハーブが詰まっていて、歩くたびにかすかに甘い香りが立ちのぼる。


陽射しのなかを歩く道は、どこまでも穏やかだった。

けれど、それが逆に心の隅を落ち着かなくさせる。


納屋の扉を叩くと、中から顔を出したのは、町の薬師の男だった。無精髭を蓄え、片目だけでこちらをじっと見るような人で、いつも淡々としている。


「ああ、来たか。領主殿から聞いてる」


籠を手渡しながら、アメリアはなんとなく尋ねてみた。


「この町で、何か……変化があるって、聞いたことありませんか?」


薬師は一度だけ眉を上げたが、それ以上の反応はなかった。

そのまま無言で籠を受け取ると、指先でハーブの香りを確かめるように顔を寄せた。


「この土地は古い。表面が穏やかなのは、そういう顔を選んで見せてるだけだ」


ぽつりと漏れたその言葉に、アメリアは思わず立ち止まった。


「じゃあ、見えていない“顔”が……あるんですか?」


「知らない方がいいこともある。けど、知ろうとするなら、止めはしない」


淡々とした声のまま、薬師は籠を中に運びながら背を向けた。


扉が閉まる音は、いつもより少しだけ重く聞こえた。

アメリアはひとつ深く息を吐き、その場を離れた。


土の匂い、揺れる草、遠くで犬の吠える声。

何も変わっていないはずの町が、少しだけ違って見えた。


夕暮れ。

アメリアは、丘の上にいた。


町の端にある小高い場所。かつてエリオットと立った場所と同じ。

そのときは「静けさ」が意味だった。

でも今日は、その沈黙の中に言葉が潜んでいる気がしていた。


背後から足音がしても、振り返らなかった。

けれど、その気配だけで誰かは分かった。


「……来ると思ってました」


「丘に立つ人は、何かを決めようとしているときだ」


エリオットは彼女の隣に立ち、町のほうを見た。

家々の窓には灯りがともり、遠くから鍋の蓋の音が風に混じって届いてくる。


「この町は、何かを隠していますか?」


その問いに、エリオットは答えなかった。すぐには。


「“守っている”と言った方が正しい」


「何を?」


「昔からこの土地に根ざしているもの。目に見えない境界。……それを知らずに住んでいる者もいるが、知っている者もいる」


「私は……」


「知ろうとしている。それだけで、この町はお前を試すだろう」


その言葉に、アメリアはゆっくりと目を閉じた。


「試されても構いません。私は、ここで生きたいと思っているから」


その返答を聞いたとき、エリオットの横顔がわずかに緩んだ。

それは微笑とは言えないほどかすかな変化。けれどアメリアは、それを確かに見た。


「なら、今日の風はきっとお前の味方だ」


そう言って彼は、静かに丘を下っていった。


残されたアメリアの頬に、夕風がひとすじ流れる。

その風は、どこか懐かしくて、それでいて──

どこかで「始まりの合図」にも似ていた。

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