表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/50

第12話 それでも、ここにいると決めたから

翌朝、窓の外には霧が立ち込めていた。

町全体が淡い白に包まれていて、視界がぼやけるその風景はどこか夢の中のようだった。


アメリアはテーブルの上に置いた布袋をじっと見つめていた。

昨日、市場で買った刺繍入りの小さな袋。贈る相手は決まっている。

けれどその手渡し方を考えるうちに、手の中で何度も握ったり開いたりを繰り返していた。


「迷ってるの?」


不意に後ろから声がして、振り向くと女主人が立っていた。

彼女はアメリアの手元を見て、すぐに察したようだった。


「それ、私?」


「……はい。いつも、お世話になってばかりなので」


「ありがとう。でもね、こういうのは迷わず渡すのが一番なのよ」


そう言って笑う女主人の声は、いつもよりほんの少しだけ優しかった。


「でも、人って難しいですよね。ちゃんと伝えたいと思えば思うほど、口が重くなってしまって」


アメリアがそう言うと、女主人はパンの生地をこねながらつぶやいた。


「伝えたいと思えるようになったってことが、何よりの変化なのよ。昔のあんたなら、黙って自分だけで片付けてたでしょう?」


言葉を返す前に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

たしかにその通りだった。だからこそ、いまこの袋を渡すことに意味があるのだと、静かに思った。


霧はまだ晴れない。けれど、見えないからこそ、どこに立っているのかを確かめたくなる。

そんな朝だった。


昼近くになっても、霧は町の輪郭を曖昧にしたままだった。

アメリアは上着の襟を軽く立て、刺繍袋を小さく包んだ布ごと手に持って、宿を出た。


いつもなら見慣れた通りが、霧に沈んで別の場所のように見える。

それでも、歩く道に迷いはなかった。

通りの端に、薪を割る音が聞こえる。その一定のリズムに導かれるように歩いた先に、エリオットの姿があった。


彼は斧を手にしながら、木材に無駄のない動きで刃を振るっていた。

霧の中でも姿勢は崩れず、沈黙の中にいることが、まるで呼吸をするように自然だった。


「……お忙しいところ、すみません」


アメリアがそう声をかけると、エリオットは一度だけ手を止め、こちらを見た。


「何かあったか?」


「いえ……あの、これを」


差し出した手の中にある、小さな布袋。

言葉が出ないまま、そのまま渡すように差し出す。

一瞬、彼の眉がわずかに動いた。


「なんだ?」


「贈り物です。……ほんの気持ちだけです」


「なぜ俺に?」


「“誰かのため”という気持ちを、初めて誰かに向けてみようと思えたから」


自分でも、こんなに素直な言葉が出るとは思っていなかった。

けれど、それが嘘ではないことだけは確かだった。


エリオットはしばらく黙って袋を見下ろしていた。

受け取るでも、拒むでもなく、その沈黙が少しだけ長く続いた。


「重いものじゃないです。ただ……」


「……受け取る」


その一言に、アメリアは目を見開いた。

エリオットは丁寧に袋を手に取り、指先でそっと布の感触を確かめていた。

まるで何かを壊さないように、大切に扱うように。


「ありがとう」


そう言った彼の声は、ほとんど聞こえないほどに低かったが、確かにあたたかかった。


霧の中で言葉を交わしたあと、二人は少しの間だけ並んで歩いた。

言葉はなかった。けれど、静かな空気のなかで、互いの存在がゆっくりと輪郭を帯びていく。


宿に戻る道すがら、アメリアはふと立ち止まった。

通りの先、霧のなかに見えた黒い影。

すぐに動いたのは、エリオットのほうだった。


「下がってろ」


その声とともに彼が前に出る。だが、霧の中から姿を現したのは──ミレーナだった。

以前よりもやや無造作に髪を束ね、肩には細身の荷物袋を提げていた。


「……驚かせたなら、謝るわ」


ミレーナの声は変わらず落ち着いていたが、何かを探っているような視線がこちらに向けられていた。


「ずいぶん、仲が良さそうで」


その一言に、空気が少しだけ重くなる。

アメリアはすぐに返さなかった。ただ、視線をまっすぐに返した。


「……何が言いたいんですか?」


ミレーナはふっと笑うように鼻を鳴らし、近づいてきた。


「この町、もうすぐ“動く”わよ。あなたが何を選ぼうと自由だけど──何も知らないまま、のんびり暮らせる場所じゃない」


それが脅しなのか、忠告なのか、判断はつかなかった。

けれど、アメリアのなかに芽生えた静かな意志が、その言葉に押し流されることはなかった。


「私は、ここで生きると決めたんです」


「ふうん。なら、せいぜい後悔しないことね」


そう言ってミレーナは霧の中に溶けるように去っていった。

その背中は、どこか追いかけてはいけないものに見えた。


エリオットは何も言わなかった。ただ、アメリアの横に立ったまま、最後まで視線を逸らさなかった。


町の空はまだ白くぼやけている。

けれどアメリアの中では、確かな色が少しずつ広がっていた。


──たとえ何が起きようとも、この場所を選び直す理由は、もういらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ