第12話 それでも、ここにいると決めたから
翌朝、窓の外には霧が立ち込めていた。
町全体が淡い白に包まれていて、視界がぼやけるその風景はどこか夢の中のようだった。
アメリアはテーブルの上に置いた布袋をじっと見つめていた。
昨日、市場で買った刺繍入りの小さな袋。贈る相手は決まっている。
けれどその手渡し方を考えるうちに、手の中で何度も握ったり開いたりを繰り返していた。
「迷ってるの?」
不意に後ろから声がして、振り向くと女主人が立っていた。
彼女はアメリアの手元を見て、すぐに察したようだった。
「それ、私?」
「……はい。いつも、お世話になってばかりなので」
「ありがとう。でもね、こういうのは迷わず渡すのが一番なのよ」
そう言って笑う女主人の声は、いつもよりほんの少しだけ優しかった。
「でも、人って難しいですよね。ちゃんと伝えたいと思えば思うほど、口が重くなってしまって」
アメリアがそう言うと、女主人はパンの生地をこねながらつぶやいた。
「伝えたいと思えるようになったってことが、何よりの変化なのよ。昔のあんたなら、黙って自分だけで片付けてたでしょう?」
言葉を返す前に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
たしかにその通りだった。だからこそ、いまこの袋を渡すことに意味があるのだと、静かに思った。
霧はまだ晴れない。けれど、見えないからこそ、どこに立っているのかを確かめたくなる。
そんな朝だった。
昼近くになっても、霧は町の輪郭を曖昧にしたままだった。
アメリアは上着の襟を軽く立て、刺繍袋を小さく包んだ布ごと手に持って、宿を出た。
いつもなら見慣れた通りが、霧に沈んで別の場所のように見える。
それでも、歩く道に迷いはなかった。
通りの端に、薪を割る音が聞こえる。その一定のリズムに導かれるように歩いた先に、エリオットの姿があった。
彼は斧を手にしながら、木材に無駄のない動きで刃を振るっていた。
霧の中でも姿勢は崩れず、沈黙の中にいることが、まるで呼吸をするように自然だった。
「……お忙しいところ、すみません」
アメリアがそう声をかけると、エリオットは一度だけ手を止め、こちらを見た。
「何かあったか?」
「いえ……あの、これを」
差し出した手の中にある、小さな布袋。
言葉が出ないまま、そのまま渡すように差し出す。
一瞬、彼の眉がわずかに動いた。
「なんだ?」
「贈り物です。……ほんの気持ちだけです」
「なぜ俺に?」
「“誰かのため”という気持ちを、初めて誰かに向けてみようと思えたから」
自分でも、こんなに素直な言葉が出るとは思っていなかった。
けれど、それが嘘ではないことだけは確かだった。
エリオットはしばらく黙って袋を見下ろしていた。
受け取るでも、拒むでもなく、その沈黙が少しだけ長く続いた。
「重いものじゃないです。ただ……」
「……受け取る」
その一言に、アメリアは目を見開いた。
エリオットは丁寧に袋を手に取り、指先でそっと布の感触を確かめていた。
まるで何かを壊さないように、大切に扱うように。
「ありがとう」
そう言った彼の声は、ほとんど聞こえないほどに低かったが、確かにあたたかかった。
霧の中で言葉を交わしたあと、二人は少しの間だけ並んで歩いた。
言葉はなかった。けれど、静かな空気のなかで、互いの存在がゆっくりと輪郭を帯びていく。
宿に戻る道すがら、アメリアはふと立ち止まった。
通りの先、霧のなかに見えた黒い影。
すぐに動いたのは、エリオットのほうだった。
「下がってろ」
その声とともに彼が前に出る。だが、霧の中から姿を現したのは──ミレーナだった。
以前よりもやや無造作に髪を束ね、肩には細身の荷物袋を提げていた。
「……驚かせたなら、謝るわ」
ミレーナの声は変わらず落ち着いていたが、何かを探っているような視線がこちらに向けられていた。
「ずいぶん、仲が良さそうで」
その一言に、空気が少しだけ重くなる。
アメリアはすぐに返さなかった。ただ、視線をまっすぐに返した。
「……何が言いたいんですか?」
ミレーナはふっと笑うように鼻を鳴らし、近づいてきた。
「この町、もうすぐ“動く”わよ。あなたが何を選ぼうと自由だけど──何も知らないまま、のんびり暮らせる場所じゃない」
それが脅しなのか、忠告なのか、判断はつかなかった。
けれど、アメリアのなかに芽生えた静かな意志が、その言葉に押し流されることはなかった。
「私は、ここで生きると決めたんです」
「ふうん。なら、せいぜい後悔しないことね」
そう言ってミレーナは霧の中に溶けるように去っていった。
その背中は、どこか追いかけてはいけないものに見えた。
エリオットは何も言わなかった。ただ、アメリアの横に立ったまま、最後まで視線を逸らさなかった。
町の空はまだ白くぼやけている。
けれどアメリアの中では、確かな色が少しずつ広がっていた。
──たとえ何が起きようとも、この場所を選び直す理由は、もういらなかった。




