第11話 交わらない距離の中で
春の光はやわらかく、けれどその奥にひそむ鋭さに、アメリアはふと気づいた。
ミレーナと再び顔を合わせたのは、洗濯物を干していた宿の裏庭だった。
朝露が残る草の匂いと、風に揺れるシーツの白さ。何もかもが静かで、言葉を交わすには十分すぎる余白があった。
「……昨夜は、よく眠れましたか?」
不意にミレーナがそう問いかけた。干していた布の端に手をかけたまま、視線は遠くの空へ向けられている。
「はい。おかげさまで」
「そう。いい顔してる。……少し、拍子抜けしたくらい」
その言葉に、アメリアはそっと目を細めた。
軽口にも感じるが、その奥にわずかに沈んだ響きがあった。
「どういう意味ですか?」
「貴女のこと、王都では少しだけ噂になっていたから」
風が少し強くなり、干しかけたシーツがぱさりと揺れた。
「落ちぶれた公爵令嬢。婚約破棄されて姿を消した“令嬢様”が、どうやって生きているのか、興味本位で語る人もいた」
アメリアは言葉を返さず、指先の洗濯バサミを強く握った。
ミレーナはふっと笑いを含ませて続ける。
「けれど、実際にこうして見てみると……ずいぶん“生きてる”のね、貴女」
アメリアは黙っていた。けれどその沈黙は、負けでも怯えでもなかった。
むしろ、内側に積もった何かが風の中で溶けていくような、そんな気配をまとっていた。
「私は、ただ……自分で選んだ場所にいるだけです」
「選べる人間は、強いわ」
そう言ってミレーナは一枚の布を高く掲げた。
風にのせて光が布の端を透かし、そこに映る彼女の横顔は、どこか遠いものを見ているようだった。
ミレーナと交わした言葉は、それきりだった。
会話というより、互いの在り方を確認するための静かな衝突のようだった。
けれどアメリアの胸の奥には、妙なざわめきだけが残っていた。
午後、アメリアは市場へと足を運んだ。
天気の良い日は、広場に面した石畳が熱を帯び、季節の野菜や花が色を添える。
けれど今日は何を買いたいというより、ただ歩きたかった。
「アメリア」
背後から呼び止められて、振り返るとそこにいたのはエリオットだった。
彼はいつものように無表情で、けれどその声にはわずかに柔らかさがあった。
「散歩です」
「そうか」
その短いやりとりの後、彼は特に理由も告げずに横に並んだ。
アメリアも何も言わず、そのまま歩を合わせた。
沈黙は気まずくなかった。
むしろ彼と一緒にいるときだけ、言葉が少ないことが「不安」でなくなる。
無理に話さなくていいこと、見せなくていいこと、それらがすべて許されているような気がした。
「町の人間は、お前のことを“ここにいる人”として扱い始めてる」
突然の言葉に、アメリアは歩を少しだけ緩めた。
「……そう見えますか?」
「そういう声を、何度か耳にした」
それは事実なのだろう。彼が嘘をつく人間でないことは知っている。
けれど、自分では実感できない不思議さが、言葉の隙間に漂っていた。
「あなたは、どう思いますか? 私は“ここにいる人”に……なれていますか?」
その問いは自分でも予想していなかった。
けれど、口から滑り出たその言葉を、エリオットはすぐに受け止めた。
「お前は、誰かの期待の中で生きていた。今は、期待ではなく、土地に根を張っているように見える」
「それは……どういう意味でしょう?」
「わからない。だが、前よりずっと……いい顔をしてる」
その言葉に、アメリアは視線を落とした。
目の奥がじんわりと熱くなる。けれど、涙はこぼれなかった。
風が吹き抜け、髪をやさしく揺らした。
市場の端に、小さな露店が出ていた。
木の台に並ぶのは、手作りのリボンや布細工。派手ではないが、丁寧に作られたことが一目で伝わってくる品々だった。
「……少しだけ、見てもいいですか?」
アメリアの言葉に、エリオットは無言でうなずいた。
並んだ品の中に、小さな刺繍の入った布袋があった。
淡い藍色に、白い糸で草花のような模様が縫い込まれている。素朴で、けれどどこかあたたかい。
「これ、きっと……あの人なら、似合いそう」
誰にということは、声に出さなかった。
けれど、思い浮かべていたのは、厨房でせかせかと動く女主人の姿だった。
「それを買うのか?」
エリオットの問いに、アメリアは小さく頷いた。
「はい。……お礼に、いつか渡したくて」
「それで充分だ」
彼の声は、風に乗るようにして短く届いた。
感情をこめたつもりはないのだろうけれど、その簡素さがかえって胸を打った。
袋を受け取り、代金を払ってから、アメリアはふと、通りの向こうに目をやった。
一瞬、視線が重なった気がした。
──ミレーナが、こちらを見ていた。
遠くて表情まではわからなかった。ただ、その目はどこか探るようで、観察するようで、けれど、怒りや蔑みではなかった。
むしろあれは、ほんの一瞬の「寂しさ」にも見えた。
だが、次の瞬間には彼女は背を向けて歩き出した。
人混みに紛れ、影のように消えていく。
アメリアは息を吸い込み、手にした布袋をもう一度しっかりと握った。
「……帰りましょうか」
「そうだな」
エリオットの隣に立つことに、もう特別な勇気はいらなかった。
その帰り道は、今日までとは少しだけ違う、静かな確かさに満ちていた。




