第10話 居場所という言葉に触れた日
パンの焼ける匂いが、朝の空気にゆっくりと溶けていた。
アメリアは厨房の端で、女主人の手元を見ながらパン生地に粉を振っていた。何度も見てきた手順だが、実際に手を動かしてみると、すべてが違って感じられる。
「力を入れすぎると固くなるから、もう少し優しく」
「……こう、ですか?」
「そうそう。大丈夫、ちゃんとできてるわ」
女主人がうなずくと、アメリアの顔がふっとほころんだ。
この宿の台所で、手を動かしていると、何かが確かに地に足をつけている気がした。
パン生地を寝かせたあとは、スープを煮る。ハーブを刻み、塩を指でつまみ、木のスプーンで何度も味を確かめる。昔の自分なら「誰かがやってくれること」だった。
けれど今は、「自分の手で作ること」に意味があると思える。
「君、本当に変わったわね」
突然の言葉に顔を上げると、女主人がにこにこと笑っていた。
「ここに来たばかりのときは、どこか触れたら壊れそうだったのに。いまは……うん、いい顔してる」
「……ありがとうございます」
返す言葉が浮かばなくて、アメリアはただスプーンを持ったまま、うつむいた。
けれど、胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのが分かった。
それはたぶん、「居場所」という言葉に初めて手が触れた感触だった。
午後、アメリアは市場へ出た。
春祭りが終わってからというもの、町の空気はどこか緩やかにほどけていて、店先のやり取りにも笑い声が増えていた。野菜の籠を抱える婦人たちや、木箱を運ぶ若者たちの合間を縫って歩きながら、アメリアは袋の中のハーブの香りに意識を向けていた。
「アメリアさん!」
声をかけられて振り返ると、ユリアンが小走りで近づいてきた。
今日もまた手を真っ黒に汚していて、どこかの修理帰りらしい。
「今日のスープ、また昨日のやつ作るんですか?」
「ええ。でも、少しアレンジを加えてみようかと」
「うわ、プロ意識だ……! もう“宿の令嬢”じゃなくて、“厨房の女神”って呼ばなきゃですね」
からかい混じりのその言葉に、アメリアは苦笑しつつも否定しなかった。
誰かにそう言われて、拒絶ではなく受け入れられる自分に気づいて、胸の内に小さく灯がともる。
「そうだ、今日の午後──町の集会所で子供たちの読み聞かせやるって話、聞きました?」
「読み聞かせ?」
「ええ。絵本が届いたらしくて。よかったら覗いてみませんか?」
即答できないまま、アメリアは小さく頷いた。
言葉に出すのが少しだけ怖いことも、黙って見守ってくれるこの町の空気に、少しずつ背中を押されている気がしていた。
誰かと交わることで、自分の形が曖昧になるのが怖かった。
でも今は、その曖昧さの中に「生きている」という感覚が芽生えつつあった。
集会所の奥の部屋には、丸太で作られた小さな椅子がいくつも並べられていた。
その真ん中に、色とりどりの表紙の本が山になって置かれている。
アメリアが入ると、数人の子供たちがぱっと顔を上げた。
最初は遠慮がちに見つめられたが、すぐに「お姉ちゃんだー!」と駆け寄ってくる子が現れた。
「読んで、これ、読んで!」
小さな手が差し出したのは、魔法使いが空を飛ぶ絵本だった。
アメリアはその表紙を見つめ、ページをめくる。
──文字がある。物語がある。それを、誰かに届ける声が、いま自分の喉を通ろうとしている。
「……いいわ。じゃあ、最初のページから」
読み始めると、子供たちは思いのほか静かに耳を傾けた。
言葉の調子に合わせて目を輝かせたり、笑ったり、時にはページを覗き込んだりする。
その反応のひとつひとつが、アメリアの中の何かを確かに揺らしていった。
最後のページを閉じたとき、手の中の本が少しだけ重たく感じた。
けれどそれは、責任や義務の重さではなく、受け取られた喜びのようなものだった。
「また来てね!」
「アメリアお姉ちゃん、声きれいー!」
そんな声が跳ねるように耳に残りながら、彼女はふっと笑った。
ありがとう、という言葉を飲み込む。
胸の奥で、何かが少しずつ、でも確実に輪郭を持ちはじめていた。
その夜、彼女は眠る前に手帳を開いた。
何かを書くつもりではなかった。ただ、ページの余白にそっと手を置いて、目を閉じた。
──きっとここは、「通りすぎるだけの場所」ではない。
少しずつそう思えるようになっていた。




