第1話 婚約破棄から始まる私の新しい人生
舞踏会場のシャンデリアが揺れていた。細かなクリスタルが小さな星屑を散らすように光を放ち、華やかな衣装をまとった貴族たちの囁き声が遠く霞んで聞こえる。けれどアメリアには、その煌びやかな空間がどこか霞んで見えていた。理由ははっきりしている。先ほど目の前で、婚約者であるアルフレッドが別の女性の手を取ったからだ。
胸がざわめく。指先が冷え切っていくのを、彼女は自覚した。細かく刻まれる脈拍が、不自然なほど喉の奥でうるさく響く。だがアメリアは、表情を崩さないよう強く瞼を閉じて耐えた。まだ、自分が壊れるのは早すぎる。
「ああ……申し訳ない、アメリア」
アルフレッドの声はどこか他人事のようだった。彼が手を取る女性――公爵家の娘、エリザベートは唇をうっすらと緩ませて、見下ろすようにアメリアを見つめている。見慣れたはずのその顔が、今日は妙に遠く感じられた。
「申し訳ない、とは?」
自分の唇が動いたのが奇妙だった。思考は鈍く、言葉は薄い膜に包まれているように響いた。息苦しい。周囲の視線が針のように彼女の肌を刺した。心臓の鼓動が胸郭を押し上げ、痛いほどの圧迫感がアメリアを襲った。
「婚約はここで解消しよう。君とは……そうだな、性格が合わなかったようだ。もっと早く気づけば良かった」
アルフレッドの言葉はどこまでも無機質だった。けれど、その無感情な響きにかえってアメリアの胸の奥がひりつく。気付けば手は軽く震えていた。エリザベートの瞳に宿る微かな優越感を見た瞬間、背筋に冷たい何かが走った。
「ああ、そうですか」
吐息のような返事が喉の奥から漏れた。視界がぼやけ、アメリアは思わず一歩後ずさった。何かが喉に詰まり、うまく呼吸ができない。今すぐこの場所から逃げ出したい。けれど、逃げることも許されない。これが公爵家の娘としての、自分の最後の責任なのだから。
「では、失礼します」
アメリアは軽く膝を折り、ドレスの裾を握った。その指先が氷のように冷えていたことに、彼女はそのとき初めて気づいた。
舞踏会場を抜けて庭園へと続く扉を開けた瞬間、冷たい夜風が肌を撫でた。吐息が白く濁り、肺の奥に痛みを感じる。庭園は静まり返っていた。どこか遠くで鳴く夜鳥の微かな声と、自分の荒い呼吸音だけが耳元に残った。アメリアは石造りのベンチにゆっくりと腰を下ろした。指先がドレスの布地を強く掴み、微かな震えが止まらない。
ふいに、夜空を見上げると月は薄雲に隠れ、そのぼんやりとした光が庭園の草花に青白い影を落としている。唇を噛みしめると、わずかに鉄のような苦みが舌の先に滲んだ。何かが壊れたように涙が滲みそうになるが、彼女は瞬きを繰り返しそれを追い払った。
「こんなところにいたのですね」
静かな声が背後から響いた。驚きに肩が跳ねる。振り返ると、そこには彼女の兄、レオナルドが立っていた。彼の表情は読み取れないほど穏やかで、心の底がざわめく。
「兄様……」
声は頼りなく震え、自分でも驚くほどか細いものだった。レオナルドは無言で彼女の隣に座ると、膝の上で指を組んだまま黙り込んだ。二人の間に流れる静寂が重く、アメリアの胸を圧迫した。
「……これからどうするつもりだ?」
やがてレオナルドが問いかけると、アメリアは迷わず唇を開いた。
「ここを出ます。兄様、申し訳ありませんが、私はこの場所にいることはできません」
そう言った瞬間、視界がぼやけるのを感じた。涙が滲む前に空を見上げ、息を深く吸った。喉元を滑り落ちる冷たい空気が、胸の内の熱を静かに冷ましていくようだった。
「……そうか」
レオナルドの短い返答に安堵を覚える。兄の指がゆっくりとほどけていく音さえ聞こえるような気がした。
「好きにするといい。お前がそう決めたのなら、私は何も言わない」
静かな言葉に、アメリアは胸が詰まった。兄はこれ以上何も聞かず、また彼女もそれ以上話そうとは思わなかった。沈黙が二人の間に再び訪れたが、さっきよりも遥かに柔らかで、穏やかなものだった。
「……ありがとう、兄様」
短く告げると、レオナルドはただ微かに頷いただけだった。その仕草を目にして初めて、胸の奥に溜まっていた澱がゆっくりと流れ落ちるのを感じた。
翌日の早朝、まだ辺りが深い藍色の静けさに包まれている頃、アメリアは小さな馬車に乗り込んだ。見送る者はいない。彼女自身が望んだことだった。夜露に濡れた窓枠に指先を滑らせると、湿った木の感触が冷たく心地よかった。車輪が動き出す微かな揺れに、身体の芯がわずかに浮くような感覚があった。
故郷の街並みが徐々に遠ざかり、記憶のように霞んでいく。吐く息が窓ガラスを曇らせ、それを指でなぞった。何を描くでもなく、ただ意味のない軌跡を残していく。何度も同じことを繰り返し、いつの間にか指先がひんやりとした温度に痺れていた。
馬車が走るにつれて外の風景は次第に広がりを見せ始め、見知らぬ丘陵や深い森、どこまでも続く牧草地が窓を通り過ぎる。アメリアは目を閉じ、意識を静かに漂わせた。これからのことを考えると胸に軽い不安が広がったが、それ以上に心地よい解放感が彼女を満たしていた。
辺境の町、『リリエル』という名を何度も口の中で転がす。特別な響きがあるわけでもない、ただ小さく素朴な響きをもつその名が、今の彼女には温かく感じられた。
目的地まであとどれほどの時間がかかるのか、詳しいことは何も知らなかった。だがそれすらも心地よかった。今の彼女には、自分が知らないことがたくさんあるということが、ただひたすら嬉しかった。
ふいに、馬車の車輪が小石を跳ねる音が聞こえ、アメリアはゆっくりと目を開けた。窓の向こうには、地平線に沈んでいく太陽が優しい光を放っている。その柔らかな光に触れた瞬間、彼女の胸に静かな温もりが広がった。痛みも、悲しみも、後悔も、その全てが薄いベールに包まれていくようだった。
彼女は軽く息をつき、窓の外に視線を戻した。新しい町、新しい人生。これまでの自分とは違う、全く別の人生がこの先に待っている。そう考えるだけで、胸の奥に静かな期待が灯った。
「……さあ、行きましょう」
アメリアの呟きは馬車の振動とともに微かに揺れ、静かな決意が混じっていた。もう振り返らない。前だけを見る。彼女は冷たくなった指先をゆっくりと握りしめ、微笑んだ。
Xやってます〜
https://x.com/kanata578258/
最後までお読みいただきありがとうございました!お気に召しましたら評価やブックマークを頂けると励みになります。