赤いポンチョの女
コツン、コツンという音に悟は目を覚ました。
眠い目をこすりながら周囲を見回す。
なにかとても薄暗く冷たいところにいる。
いったい、ここはどこなのだろう
冷たいリノリウムの床に寝転がっていたのだけど、そこが見覚えのないところで少しパニックになりかけた。
……台風は進路を東寄りに変えながら……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
……今夜夜半から明日の未明にかけ……地域を強い風雨を伴い……横断……
ラジオのアナウンサの声が背中越しに途切れ途切れに聞こえてきた。振り向くとぼやっとした光の塊が薄暗い闇の中に浮かび、その光の中に大人の人たちが背中を丸めて床に座っているのが見えた。
……東区、天満区、西大井区、坂……区、宮ノ壷……に緊急避難勧告……発令……
宮ノ壷は自分の住んでいる地域で、ラジオの声でようやく悟は自分が両親と一緒に近くの公民館に避難しているのだと思い当たった。いつの間にか寝てしまっていたらしい。
今、何時なんだろう
そう思いながら周囲を見回したが時計は見当たらなかった。仕方なく外へ目を向けるが、外は真っ暗で夜のように思えた。
でも、台風が来ているから昼でもこのくらい暗くても不思議じゃないかも……
悟は、寝起きでぼうっとした頭で今までのことを思い出そうとした。
確か、朝、台風接近で小学校がお休みになったと喜びながら、のんびりと朝食を食べてテレビをみていた。
それから昼前ぐらいにお母さんとお父さんが急に慌てて荷造りを始めたんだっけ
この地区に避難勧告が出たから今から公民館に避難するぞ、とリュックを背負ったお父さんに言われた。
そうして公民館にやってきたのだ。それが確か午後3時ごろだったか。
その後、係の人に場所を当てがってもらっていたけれど、テレビもゲームもない避難所でたちまち暇を持て余してしまった。仕方なしに公民館を探検しているうちに眠ってしまったのだろう。と悟は締めくくる。
もう一度外へと目を向けた。
窓に風に吹かれた木の枝が当たりコツン、コツンと音を立てていた。
公民館の窓には乱雑にテープが貼られていた。飛散防止の処置だと、係の人が言っていた気がする。窓へ寄ってテープの隙間から外を覗いてみた。公民館の裏庭が見えた。
視線を上にあげてみる。
空は真っ黒で何も見えない。雨が滝のように降り注いていた。風がどのくらい強いかわからないけど、木の枝の揺れ具合で相当強いのは分かった。でもこのぐらいなら別に家に居ても良かったんじゃないか、と思わなくもなかった。
「え?!」
思わず声が出てしまった。暴風吹き荒れる裏庭に赤い物が見えたからだ。目を凝らすとそれが赤いポンチョを着た人だと分かった。
なんでこんなところに人が立っているの?
不意打ちに悟の心臓がどきりと脈打った。
いや、だけど、きっと避難してきた人なんじゃね
どきどきする心臓をなだめながら、そう思う。たしかに公民館だし、避難場所だから人が来たって不思議じゃない。
でもなんで裏庭に立っているのだろう?
避難してきたなら正門から中に入ればいいじゃないか
なんで裏庭で立っているんだろう。それに一向に入ってこようとしないのは何故?
沸々と湧いてくる違和感。それがじわじわとした不気味さに変るのはすぐだった。
なんかこの女の人、変!
なんとなく危険を感じた悟は、窓から急いで離れようとした。踵を返してラジオを聞いている大人たちに合流しようとする。その時
カシャ
何かを踏みしだくような音がした。その音で金縛りにあったかのように悟の足は固まってしまった。
カシャ、カシャリ
音が続く。近づいてくる。悟はおそるおそる後ろを振り向いた。
赤いポンチョの人が公民館の中にいた。
ポンチョからぽとぽとと雨を滴らせていたけど、まるで気にかけていないようだった。それに……、それに、どうやってはいってきたんだろう、と思った。
窓を開ける音はしなかった。
第一窓を開けたら風にが中に入ってくる。空気の流れですぐに分かるはずだ。それなのに、そんな感じはまるでなかった。
悟は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「あの……」
女の人の声だった。それが徒競走の号令のように悟は一目散に走り出した。とにかく近くの大人のいるところまで転がるように逃げ込むと大声で叫んだ。
「へ、変な女の人がいるよ!」
後ろを指さしながら訴えたが、周りの大人たちの反応はいまひとつだった。みんな車座になりその中心にあるろうそくをじっと見やり、台風の状況をアナウンスするラジオに耳を傾けるばかりだった。だれも悟の叫びに耳を貸そうする者は居なかった。
「ねえ、ねえ、変な女人がいるんだよ。あっちにさ! 赤いポンチョを着ていて、窓も開けずに入ってきたんだよ。きっとお化けかなんかだよ。本当だって!!」
それでも悟は懸命に訴える。
ようやく何人かの男の人が悟の指さす方向に顔を向けたが、すぐにまたろうそくのほうへ視線を戻してしまった。
振り返るのはすごく怖かったけれど、大人たちの反応の薄さにもどかしそうに悟はついに振り返った。振り返って、赤いポンチョの女の人を直接指さしもう一度糾弾するのだ。
「ほら……あ、あれ……、いない……」
赤いポンチョの女の人の姿はどこにもなかった。想定外のことに悟は文字通り言葉を失ってしまった。
「え、だって、本当に居たんだよ。赤いポンチョを着た女の人がさ、噓じゃないんだって」
だれもなにも言わなかったが、悟はムキになって自分が正しいことを主張しようとした。しかし、主張すればするほど、場は白々しい雰囲気になっていくのを彼自身が感じていた。それでも必死に言葉を継ごうとしたその時、声がした。
「何を騒いでいるのですか?」
声のほうを向くと、眼鏡をかけた細面の女の人がいた。手に持った燭台のろうそくに照らされてぼんやりと闇の中に浮かんでいた。胸に名札をつけているから、この公民館の係の人なんだろうと悟は思った。
「えっと……な、なんでもありません」
ろうそくの火に下から照らされているためか、その女の人の顔はひどく不気味に見えた。そのせいでさっきまであんなに必死に女の人の実在を主張しようとしていた気持ちがすっかり萎えてしまった。
女の人、名札には、三井と書かれていた、三井さんはしばらく悟を値踏みをするように見ていたが、そうですか、避難している人の迷惑にならないようにしてくださいね、とだけ言うと闇の中へと消えていった。
悟は、三井さんの姿が見えなくなった後、少し途方に暮れた。大人たちは何事もなかったかのように相変わらずろうそくの炎を見つめ、一心にラジオに聞き入っていた。まるで悟の存在などないかのようだった。悟はなんとも気まずい気持ちになった。落ち着かない気持ちで周りへなんとなく目を向けた。
ろうそくの弱弱しい光は、あっというまに周りの暗闇に散らされてしまうのか数メートル先はもう薄暗く墨を溶かした水のように真っ黒になって何も見えなくなってしまう。
小さなため息をつきながら悟は天井を見上げてみた。
天井は思ったよりも高く10メートルはありそうだ。
規則正しく蛍光灯がならんで鈍く光っていたけれど、なぜか床まで光が届かず、ちっとも照明の役目を果たしてはいないようだった。
この公民館ってこんなに大きかったっけ?
と悟は一瞬思ったけれど、闇に視界が遮られているでせいですごく広く感じるだけだろうと思いなおした。このどこかにお父さんやお母さんもいるはずだ。頼りなく、気まずいとはいえこの光の輪から離れるのは少し勇気がいるけれど、お父さんたちと合流する決意を悟は固めた。
立ち上がるととりあえず、窓、さっき赤いポンチョの女の人と出会ったところから離れる方向に向かって歩き出した。数歩も歩かないうちに闇に包まれる。手を伸ばすともう手の甲すら見えなくなるぐらい暗かった。怖かったけれど、悟は障害物にぶつかったり転んだりしないよう慎重に歩を進めた。
どのくらい歩いただろうか、ふいにぼんやりした光の球が視界に現れた。悟はその光に向かって歩いた。
やがて、光の中に座っている人たちの姿を認めることができた。
そこもやっぱりろうそくを囲むように大人たちが無気力に座っていた。
その中に見知った女の子がいるのに悟は気がついた。近所に住んでいる同級生の忍ちゃんだった。
「ああ、忍ちゃん」
「あ、悟君。あなたも避難してきたのね」
悟の姿を認めた忍も声を返してくれた。安心した悟は忍の隣に腰をおろした。さっきのところと同じでろうそくの横にラジオが置かれていて、ラジオからは台風の情報が流れていた。
……台風は進路を東寄りに変えながら……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
……今夜夜半から明日の未明にかけ……地域を強い風雨を伴い……横断……
体育座りの両ひざに顎をのせたまま、悟は輪の人々を眺めてみた。頭に白いものが目立つ年配のおじさんとおばさん。その横に少し小太りの大学生風のお兄さん。それから、見覚えのある女の人。
あ、この人、忍ちゃんのお母さんだ
近所のスーパーで忍と買い物に来ているのを見かけたことがあったから覚えていた。後は忍と悟の6人だった。
「ね、忍ちゃんのお父さんは居ないの?」
「うん。なんか電車が動かなくなって帰ってこれなくなったの。だからここにはお母さんと2人で来たのよ。ここまで歩いてきたの。
雨と風で大変だったの」
「へぇ、そうなんだ」
悟は忍の隣に座っている忍のお母さんをちらりと見た。少し青ざめた顔色でろうそくの火を見つめていた。大人たちは一様に疲れたような感じで息が詰まった。でも忍が居るだけでさっきのところよりずっと居心地は良かった。
「あのね、僕さ、さっき変な女の人を見たんだよ」
「変な女の人?」
悟はさっきの体験を忍に話して聞かせた。
「ええ?! やだ、怖い」
忍は辺りにその女が居ないことを確認しようと周囲に目を配りながら小さく叫んだ。
悟はその怖がる姿を見るとなぜかさっき女の人を見た時のように心臓がドキドキとした。しかし、さっきとは違い不快な感じてはなかった。だからもっと忍を怖がらせたいと思い、低い声で話を続けた。
「あれはきっと、幽霊だよ。
僕、聞いたことあるんだ。この公民館には女の人の幽霊が出るって」
公民館に幽霊が出るなどと言う噂は全くの嘘だった。悟が忍をより怖がらせるためにとっさについたものだった。
「その女は話しかけた人を連れていってしまうんだ」
「つ、連れていくって……どこへ?」
「どこって……」
そこで悟は一呼吸置くと、大声で叫んだ。
「あの世だよ!」
「きゃあ!!」
忍は跳び跳ねるように驚いて大声で悲鳴を上げた。それを見て、悟は満足そうに笑う。
「も、もう! やめてよ。驚かすなんて悟君の意地悪」
「あははは、ごめんごめん。でも忍ちゃんがあんまり怖がるからつい」
「ついってなによ、悟君のバカ、バカ、バカ」
忍はポンポンと悟の肩や脇腹を殴りつけた。殴るといっても痛くない、むしろくすぐったかった。悟は身をよじり、笑いながら謝る。
「あは、あはは、ごめん。だからごめんだって。
やめて、やめて、降参だよ」
「なにを騒いでいるのです!」
不意に鋭い声が闇を切り裂くように公民館に響き渡った。とたんにじゃれあっていた2人は凍りついたように止まった。
ポンと闇の中に小さな火が点ると、急激に膨張していく。やがてずるりとその火の光から1人の女が抜け出てきた。三井さんだとすぐにわかった。三井さんは冷たい一瞥を悟に向けると言った。
「また、あなたですか。みんなの迷惑になるから静かに、と言ったはずですよ」
眉がつり上がり、怒っているのが良くわかった。悟はお腹の中の腸を直接引き絞られるような不安に襲われた。「ご、ごめんなさい」と消え入りそうな声で謝るのが精一杯だった。
「悟君が変な女の人を見たって言うんです!」
「変な女?」
言い訳のように忍は三井に訴えた。その言葉に三井の目が疑わしく細く鋭くなった。その視線が悟に突き刺さった。
「変な女とは?」
「えっと、あ、赤いポンチョを着ていて、最初裏庭に立ったいたんだけど、気づくと中に入っていて……」
「どこで見たのですか?」
「えっと……あっち……」
悟は大雑把に方向を指さした。どちらを示してもすぐに闇に呑み込まれてしまうためあまり意味があるとは思えなかったが、三井は暫く闇を睨みつけた。あるいは千枚通しのような三井の視線なら闇を突き通して見ることができるのかもしれないと、悟は思った。
「ふむ。ちょっと案内しなさい」
三井はそう言うと悟の腕を取ると強引に引っ張り上げた。
「えっ? ち、ちょっと待ってよ。ヤダよ」
悟は三井の手を振りほどこうとしたが、三井の手は金属のように冷たく固く、ガッチリと悟の腕を掴んでびくともしなかった。そのままぐいぐいと引っ張られる。少し抵抗しようと踏ん張ったがすぐに無駄だと分かった。悟のささやかな抵抗など三井にとってはまるで無いに等しい。
悟は忍や忍のお母さんに助けを求めるように後ろを振り向く。そして見てしまった。忍たちの居る光の球の中に赤いポンチョの女が立っているのを。あまりの驚きに声が出てこない。意味の無い息だけが喉から吐き出されるだけだった。
忍は赤いポンチョの女の方へ顔を向けなにか話をして居るようだった。その表情は恐怖なのか強ばり、目は大きく見開かれていた。
「あの、あ、あか、あか……」
悟は懸命に言葉を吐き出そうとするがやはり、うまく意味のある言葉にならない。そうこうしている内に忍たちの座の中心にあったろうそくの炎が消え、忍たちは闇に呑み込まれた。
「し、忍ちゃん! あれ、あれ、後ろに女の人が! ポンチョの女の人。 居たよ!!」
ようやく声が出た。
「何ですか。暴れないでちゃんと案内しなさい」
「そうじゃないって、後ろに出たんだよ。赤いポンチョの女。忍ちゃんたちが消えちゃったよ!」
三井はようやく悟の言っている意味を理解したように後ろに振り返る。そして、先ほどまで忍たちの居た所まで戻った。しかし、そこには誰も居なかった。忍たちは忽然と姿を消してしまったのだ。
赤いポンチョの女は人をあの世に連れていく
それは悟が忍を威かすために作ったでたらめだったがまるでそれが現実になったかのようだった。悟は三井にすがりつくと叫んだ。
「あの女が忍ちゃんたちをあの世に連れて行っちゃったんだよ。
ね、あれ、本物の幽霊だよ。
忍ちゃんたちを助けなくっちゃ。探してよ。まだ、きっとその辺に居るよ」
「黙りなさい。静かにしなさいと言っているでしょう」
「黙んないよ! 一緒に探してよ。忍ちゃんを助けないと!」
「ああ、それは私がやります。だから、あなたはこちらに来なさい」
悟は三井の手を振りほどこうと暴れたが、三井の手はまるで万力のようでびくともしなかった。悟は文字通りずるずると引きずられていく。
やがて闇の中に薄ぼんやりとした光が現れた。それはゆらゆらと揺れるろうそくの炎で、やはりそのろうそくを中心に人々が座り込んでいた。
「あなたはここで大人しくしていなさい」
三井はその輪の中に悟を放り込むと言った。握られていた腕がヒリヒリと痛んだ。見ると赤黒くアザになっていた。そんな命令など聞けるものかと悟は立ち上がろうとしたが三井に睨まれた。すると、不思議なことに膝から下の力が抜けて床にへなへなとしゃがみこんでしまった。
良いですね、と三井は言い捨てると闇の中に消えてしまった。
悟は落胆のため息をつくと輪の中の人たちに目を向けた。自分と同じくらいの知らない男の子とそのお母さんと思われるおばさん。そしてさらに年をとったおばあさんがうつむいて座っていた。
ろうそくの横に置かれたラジオからは声が聞こえていた。
……台風は進路を東寄りに変えながら……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
……今夜夜半から明日の未明にかけ……地域を強い風雨を伴い……横断……
悟はゆっくりと視線を動かしていく。と、2人の男女に目がいった。それは悟の父親と母親だった。
「お父さん! お母さん!!」
思わず悟は叫んだ。2人は声に反応して悟の方を見たが、すぐにまたろうそくを見つめなおす。その異常な反応に悟の背筋がゾクリと震えた。
なにか、ここ変だ。この場所も、お父さんもお母さんもみんなおかしい
初めてそんな考えが頭に浮かんだ。
「ねえ、お母さん、僕だよ悟だよ。
聞こえる? なんかここ変だよ。みんなぼうっとしてるし、暗いし、寒いし」
寒いと口に出したとたん悟は周囲の異様な寒さに気がついた。夏だというのに刺すような冷気だった。
おかしい。これ、本当におかしい
悟は母親の手や肩を揺すり名前を呼んだが、母親はまるで無反応でぶつぶつとなにか呟くばかりだった。
……大丈夫、大丈夫、台風はすぐに過ぎるから、大丈夫、大丈夫、大丈夫……
聞き耳を立てるとそんなことを繰り返し呟いている。悟は泣きそうな顔で今度は隣の父親にすがりついた。けれど父親も母親と同じく反応を示さない。
「ねえ、お父さん、みんなおかしいよ。正気に戻ってよ、ねえってば」
「……危ない、危ない、なんだあの音、ゴゴゴゴッて音、決壊、決壊、堤防が決壊?
……危ない、危ない、なんだあの音……」
父親も意味不明の言葉を呟くばかりだ。
悟は言い知れぬ恐怖にどうしたら良いのが分からなくなった。
……台風は進路を東寄りに変えながら……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
……今夜夜半から明日の未明にかけ……地域を強い風雨を伴い……横断……
ラジオからは台風の情報が繰り返し吐き出されてきた。
……台風は進路を東寄りに変えながら……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
……今夜夜半から明日の未明にかけ……地域を強い風雨を伴い……横断……
それはいつまでたっても寸分変わらない調子で繰り返されるばかりだった。
「うわああぁ!」
突然悟は悲鳴を上げてラジオを闇に放り投げた。しかし、そんな悟の行動を誰一人見咎める者は居ない。何事も無かったようにろうそくを見つめるばかりだった。
「なんでみんな黙ってるのさ!
なにか言ってよ。ねえってば」
無反応。
それが何よりも怖かった。その時、闇の中からなにかが近づいてくる気配がした。悟はそちらのほうへ目を向けた。
……台風は進路を東寄りに変えながら
闇の彼方からラジオのアナウンサの声が聞こえてくる。さっき放り投げたラジオの音だ。
……中心気圧958mm……、平均風速 47m/s……
音は徐々に大きくなってくる。
依然強い勢力を保ちつ……北上を続けており……
闇の中から赤いポンチョの女が姿を現した。その胸にはラジオが抱かれていた。
「う、うわぁ、出たぁ。 ゆ、幽霊め! こ、こっちに来るなぁ」
悟は悲鳴を上げる。あまりの恐怖に腰が抜けた。逃げるどころか立ち上がることすらできない。それでも悟はずるずると床をはいずるように後ずさった。少しでもポンチョの女と距離がとりたかったのだ。
ポンチョの女は頭のフードをゆっくりと外した。そして少し困ったように眉をひそめながら、ごめんね、怖がらせてしまって、と言った。
女の態度に悟は後ずさるのを止めた。女は言葉を続ける。
「私の名前は向日葵。幽霊じゃないわ」
「へっ?」
幽霊ではないと言われて、悟は改めて目の前の女の人を見直した。確かによく見ると顔色も良いし足もある。幽霊には見えない。
「ほ、本当に幽霊じゃないの?」
恐る恐る尋ねる悟に、日葵と名乗る女はにっこりと微笑んで見せた。
「ええ、幽霊じゃないわ」
「そうなんだ。ああ、よかった。僕はてっきりお姉さんがお化けで、忍ちゃんたちをどこかへ連れて行っちゃったと思ったんだ。ねぇ、お姉さん、忍ちゃんたちがどこにいるか知っている?」
「あー、忍ちゃんね。忍ちゃんたちはねぇ、えっとお家に帰ったっていうかなんていうか……」
悟の質問に、日葵は困ったように言い淀む。
「帰った? だって、外は台風だよ。家に帰るなんてできっこないじゃないか」
「それはね」
「お前かぁ!!」
日葵が説明をしようとしたその瞬間だった。闇の中から三井がものすごい勢いで飛び出してきた。
目は吊り上がり鬼の形相だ。悟は大人の人がそんなに怒るのを初めて見た。一目見ただけで悟は震え上がった。まるで鬼のような表情だ。
三井は両手を広げ、問答無用とばかりに日葵に掴みかかってきた。
「うひゃ?!」
転がるように日葵は襲い掛かってくる三井をかわした。
「お前が、お前が、邪魔をしてるな。せっかく掴まえたやつらを逃がしおって許さんぞ」
三井の口がばっくりと耳まで裂けた。裂けた口から鋭い牙が見える。鬼、というか完全に般若に変じていた。
悟は一体何が起きたのか、起きているのか分からなかった。分かっているのは普通ではないと言うことと、また腰が抜けて立ち上がることができなくなっているということだけだった。
日葵はそんな悟の状態を横目で見ると叫んだ。
「敬介さん、助けて!」
と、日葵の叫びに応えるように闇を切り裂く一条の光が周囲を薙ぎ払った。光は三井の胴をざっくりと切断する。
三井の上半身は床に落ち、たちまち塵のようになって消えてしまった。
あまりのことに言葉を失っている悟に日葵はゆっくりと近づく。しゃがんで目線を合わせ、ゆっくりと話し始めた。
「ごめんね。本当にびっくりさせちゃったね。でももう大丈夫だからね。
ところで、君は名前なんていうの?」
「ぼ、僕? 悟。新藤悟」
「そうか君が悟君かぁ。会えて良かったわ」
「僕のこと知っているの?」
「ええ、忍ちゃんから悟君のこともよろしくって頼まれていたから」
「え? 忍ちゃんのこと知っているの?」
「うん、さっきお話をして、それで帰ってもらったからね」
日葵はそう言うとにっと笑った。
それはまるで向日葵のようだと悟は思った。そして、この人はきっと信用しても良いんだと不思議と確信することができた。
「それじゃ、悟君、落ち着いて聞いてね。
もう何十年も前の話になるのだけど、この辺に大きな台風が来たの。風もすごかったけど雨がすごくてね、1か月分の雨が1時間で降っちゃうぐらいのすごい雨だったの。それで、いろんなところで川が氾濫したり土砂崩れが起きて大きな被害が出たわ。
この公民館もその一つ。突然の土砂崩れで建物がそっくり埋もれてしまったのよ。そして、当時公民館に避難していた人たちはみんな生き埋めになってしまったの」
「……、それで生き埋めになった人たちはどうなっちゃったの?」
悟の質問に日葵の顔は心底悲しそうに歪んだ。
「残念だけど一人も助からなかったの」
「そ、そうなんだ。可哀そうだね」
「それからその公民館、というか公民館の跡地では風や雨が強い日になると何人もの人の姿が現れるという噂になったのよ」
「へ、へぇ……、それは怖い噂だね。
さ、さっきの三井さんってのがそうなのかなぁ。あれは本当の幽霊だったんだよね」
「あの人も最初は普通の幽霊だったのよ。でも時間が経つにつれて悪霊化してしまったの。ああなるともう祓うしかなくなる」
「祓う……ああ、塵みたいに消しちゃうんだね。
他の人たちもみんなあんな風になっちゃったの?」
「いいえ、他の人たちはまた間に合うわ」
日葵は少し苦しそうに顔を歪めた。
「他の人たちは消さない。帰るべき所へ帰ってあげるの」
「ふーん」
悟は何かを察したように唇を真一文字に結んだまま黙り込んでしまった。日葵はそんな悟を黙って見つめていたが、やがてゆっくりと抱きしめた。
抱きしめただけで何も言わない。ただ、ひたすら抱きしめるだけだった。
日葵の温かさが悟の体にじんわりと伝わっていった。抱きしめられていると日葵の体がとても暖かいことが実感できた。そして自分の体がとても冷たいことも同時に分かった。
「ねぇ、僕って、僕たちってもう死んでるの?」
悟はぼそりと言った。
「うん」
「お父さんもお母さんも?」
「うん、死んでるの。ごめんなさい」
「お姉さんは、僕たちを祓いにきたの? さっきの三井って女に人みたいに塵にしちゃうの?」
「いいえ、違う……、言ったでしょう。祓いではなくて、できれば帰りたいと思っているって」
「帰りたい?」
「君の帰るべき道を示して、帰るところへ送り出したい。私は帰り師なの」
「帰り師……なんだかよく分かんないけど、お姉さんすごいんだね」
悟にそう言われた日葵はまた何も言わず、ぎゅっと悟を抱きしめ、そして静かに首を振った。何度も何度も無言で首を振り続けた。
それから、日葵は悟のお父さんやお母さんとも話をした。最初無反応だった二人だったが少しずつ表情を取り戻していき、やがていつもの二人に戻った。
「それでは、新藤さん。まっすぐ歩いていただければほどなくご自宅へ着きます。そこがあなた方の帰る場所です」
日葵が方向を指さすと、闇を貫くように光の道が現れた。悟と両親の三人は家族そろってその道へ向かって歩き始めた。やがて、新藤一家は光の道に溶け込むように姿が見えなくなった。
それを見届けると、日葵は小さく安堵の息を吐いた。
「よ、終わったのか」
暗闇の中から、目つきの悪い男が姿を現した。廣江敬介だった。
「まだですよ。まだ、5、6人います」
「まだ、そんなにいるのかよ。台風行っちまうぞ!」
「だから、頑張ってるじゃないですか。そんなに言うなら手伝ってくださいよ」
日葵は口を尖らせて抗議したが、敬介は鼻で一蹴した。
「俺は祓うだけで、帰りはできねぇ。なんたって霊が見えないんだからな。あははは」
「それ、自慢するところじゃないです。
いいですよ、帰り切れなかったら、次も敬介さんに付き合ってもらいますから」
「あ? なんだって、冗談じゃないぞ。次の機会っていつになるんだよ」
「知りませんよ。私、忙しいんだから話しかけないでください。べぇ、っだ!」
日葵はあっかんべをすると闇の中へ消えてしまった。
廃墟と化している公民館跡に敬介は一人残される。しかし、言葉とは裏腹に彼に表情に嫌そうなところは微塵もみえない。むしろ微笑んでさえ見えた。
「まあ、お前さんの好きなよう、思う存分やればいいさ。次も次の次の機会でもいくらでもつきやってやるさぁ。
帰り師 向日葵さんよぉ」
2024/08/17 初稿
つまり主人公が噂に巻き込まれる話ではなく主人公自体が噂であったというお話でした。
拙作、『帰り師 向日葵の日常』の裏エピソードでもあります。
いずれそっちに編入予定です。(いつになるかは未定ですが)