九章 わたしだけ
私は、病院内で漫画の原稿を描き、一分おきに手を止めるという作業を続けていた。昔までは頭の中に話が次々に浮かんできていたのに、今はセリフでさえも出てこない。
お母さんの言葉を、頭の中で反芻した。自殺をすると、常世と現世の狭間に永遠と閉じ込められる…。常世と現世って、どっちがどっちだっけ。漢字もわからなければ、意味も分からない。しかし、私はその文字の奥の奥を見たような気分になった。そう、私はその言葉の重要性に気づいたのだ。私はスマホに「とこよとうつしよ」と打ち込んでみた。漢字と何かの歌が出てきたが、どちらの意味も分からなかった。
漫画の下書きのぐちゃっとしたイラストを見ながら、私は大きなため息をついた。いいよね、漫画の中の人は。私の思いで、生かしたり殺したり、願いが叶ったり、テストで百点取れたり、運命の人と結ばれたりできるんだから。現実も、そうなればいいのに。そう思うと、私はお得意の妄想を始めた。
始まりは、彼女と初めて会った時。同じくキラキラ女子であった私に、かわいい女の子が話しかけてきて、運命だといわれる。隣に並んで歩いたって、恥ずかしくない。授業中に落書きもしないし、男子とも仲が良くて、モテモテ。頭が良くて、スポーツもできて、芸能界からスカウトが来るくらい顔面が良い。私は、そんな女の子。彼女と永遠の幸せを誓い合い、手を取り人生を歩む。
────いいところまで妄想が進んだのに、現実はそう甘くはなかった。漫画の原稿の隣に置きっぱなしにしておいたスマホが、二回ブーッと振動した。私は通知を見るためにスマホを拾い上げた。アシスタントさんだ。私が寝ている間にたくさん連絡をしてきていたらしい。通知が三十件を超えている。
『下書きはまだですか、締め切りが迫っています。締め切りまであと一週間ですよ。』
『下書き、順調ですか。』
『下書きのファイルが出来上がっていたら、送ってください。』
『次回の締め切りは九月七日ですよ。』
『前回の評価、良かったです。このまま継続をお願いします。』
うるさいな。そう思って、私はスマホを床に投げ落とした。パキッという音が聞こえたけど、無視。今はそれどころじゃない。彼女がいなくなったんだ。私は遺書を二冊、しわが付かない程度の強さで抱きしめた。彼女のぬくもりが、すぐそこで感じられるようだ。また、涙が出かけた。涙を我慢すると、今度は鼻水が出てきた。私は服の袖で鼻水を拭う。ズビッっと鼻をすすり、再びペンを取る。
描けない。描けない。描けない。描けない。描けない。描きたい。描けない。描きたい。描かなきゃ。描けない。ペンよ、動いて。早く、動いて。動いてよ。私のほくろ、私の手を早く操作してよ。なんで震えるの。震えないでいいから、描いてよ。動いてよ。脳みそは次の話を考えてよ。なんで、何も考えられないの。溶けてないで、早く。早く。早く。早くペンを拾って。次のコマ描いて。主人公のセリフ考えて。ヒロインの顔、かわいくないよ。描いて、描いて、描いて。わからない。助けて。苦しい。辛い。怖い。悲しい。痛い。痛い。痛い。いたい。いたい。
なんで一人で生きていかなきゃいけないの?私だけ生きていくの?私だけ、貴女のいない世界で羽を伸ばして自由に生きて、好きなことで成功して、貴女の見れなかった未来を見て、貴女と行きたかった場所に行って。貴女に伝えたいことをほかの人に伝えて、貴女を忘れた世界で貴女を忘れて生きて、貴女を喜ばせることもできず、貴女が言った言葉も風に乗って消えて、貴女の声もかたちもにおいもぬくもりもすべてわすれる。わたしだけいきていく。わたしだけ。なんでわたしなの?わたしじゃなくてあなたのほうがいい。あなたのほうがしあわせになるかちがある。かちのないわたしなんて、いきていくだけむだなの。むだにひとりぶんのさんそをすっていきる。わたしなんか、いないほうがいい。いいや、いないせかいのほうがしあわせ。つらいよ、あなたがいないからっぽのこころなんか、はないきでけしとんでしまう。あなたがいるせかいでいきたい。あなたのいたせかいがいい。
床に落ちたスマホが鳴った。一定のリズムで、振動している。私は鉛より重たい私の体を引きずるように動かし、スマホを手に取った。知らない番号からの電話。本当は出たくなかったが、私は音声通話のボタンを押し、耳元にスマホを持っていった。
「…はい。」
『もしもし、わたくし、夕日ニュース局の田畑と申します。佐々木みー太先生のお電話でお間違いないでしょうか。』
「…はい。」
『お忙しい中、ありがとうございます。先ほど、佐々木先生のアシスタントさんの内田様から佐々木先生についての情報が流れたこと、ご存じですか?』
「…いいえ。」
『なるほど。ツブヤキでの情報を読み上げますと、「佐々木みー太のデビュー作『徒花と向日葵』の打ち切り」と書かれていました。』
裏切られた。私はひどくそう思った。そんなこと、言ってない。
「そんなこと、言ってません。何かの間違いです!」
『では、アシスタントさんが嘘をついている、ということでよろしいでしょうか?』
「そうです!私はそんなこと言っていません!」
私は精一杯否定をした。言葉の勢いに任せて、台パンをしてしまったが、看護師さんが来る気配はなかった。
『そうですか。そこで、佐々木先生に提案があります。』
「…なんですか。」
『ここは、いったん手を引いてもらうということはできますか?』
「は?」
なんで私が手を引かなければいけないのか。私のデビュー作を打ち切りにしろ、ということか。なんで?私、なんか悪いこと言ってたかな。
『内田様は、たくさんの作品のアシスタントをしていらっしゃいます。内田様の信用をなくしてしまうと、ほかの漫画にも影響が出てしまいます。なので、佐々木先生が手を引いて、内田様を守る、ということでよろしいでしょうか。』
「…。」
『では、失礼します。』
「ま、待ってくださいよ!」
待ってく、のところで、電話が切れる音がした。私はツブヤキで、私のペンネームを検索しようとした。しかし、その必要はなかったようだ。トレンドのところに、私のペンネームとデビュー作の題名が載っていたからだ。
ハッシュタグをタップして、ファンのコメントを見漁る。
『次が楽しみだったのに!』『もう生きていけません。』『打ち切るなよ!』『いいところだったじゃん!』『俺はこうなると思っていたね。』『次の神漫画探そ。』『最後まで描けよ!』『十巻で終わりってこと?』『グッズ売りまーす。連絡待ってます!』『ツラすぎる(´;ω;`)』
…。心の最後の一画が抜け落ちた。
読んでくれてありがとう。
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