(四)
氏勝は暗闇の中を歩いていた。それは両の目を盲いて以来、ずっと変わらぬかの者の日常である。されど今はどういうわけか、壁を手で伝うこともなく、杖に頼ることもなく、ひたすらに真っ直ぐ歩いている。齢とともに衰えた脚も、まるで若き日に戻ったかのように力強かった。
やがて、前方に光が見えた。見えるはずのない光が見えた。その光の中に、小さな影が浮かび上がる。影はひょいと片手を上げて、こちらへ来いと手招きしていた。
「何をしておる半三郎。早く来ぬか」
そして声が聞こえた。その声は、慥かに耳に覚えがあるものだった。そしてうっすらと見えてきた面差しも、遠い記憶にあるのと同じ。おのがはじめての主君、内ヶ島孫次郎氏行のものであった。
「若殿……若殿にございますか?」
されどその姿は、最後に目に焼き付けた十四のときのままだ。それでようやく氏勝も悟った。ああ、これは夢だと。目の光を失い、人間もいよいよ終わりにさしかかり、最も会いたかった相手の夢を見ているのだと。
そうとわかっても、氏勝は歩みを止めることはできなかった。徐々に近付いてくる光に向かって、その中で手を拱いている主に向かって、無心に脚を動かし続ける。
そしてとうとう、輝くばかりの光の中へと踏み入った。そこはいつか主と並んで立った、名古屋城天守閣の望楼であった。
されどそこからの眺めは、どういうわけかすっかり様変わりしていた。おそらくは鉄とギヤマンでできたと思われる楼閣が、天を突くばかりに林立している。街道は黒々と塗り固められ、その上をひとりでに走る色とりどりの荷車が連なって進んでいた。空を仰ぐと羽ばたきもしない巨大な鳥が、雲を引きながら横切っていくのが見えた。
「これはいったい……何でござろうか」
「何を申しておる」と、氏行が朗らかに笑う。「名古屋であろう。そなたが築いた都ではないか」
ではおのれが盲いている間に、城下町はかように発展したというのか。それともこれははるか先。百年、二百年、もっと未来の光景だとでも。
「半三郎は、我との約定を忘れずにいてくれたのだな……嬉しいぞ」
氏行は眩しげに目を眇めて、こちらを見上げてくる。
「礼を言わねばならぬな。かような形で、あの日の約定を叶えてくれたことを」
されどその言葉に、氏勝は応えを返すことができなかった。それどころか、つい今しがたまであれほど力強かった両脚から、へなへなと力が抜けてゆく。ついには耐え切れず、その場にあえなく跪いた。
「……若殿」
氏行はさような様子を、不思議そうに首を傾げた。「どうしたのだ、半三郎?」
氏勝は顔を上げることができなかった。あれほどもう一度会いたいと願った、おのがはじめての主の顔を、真っすぐに見つめ返すこともできなかった。
「某は、ずっと考えておったのです。殿も若殿も、父も母も……あのときすべてを失って、何ゆえ某は生き残ってしまったのかと。何ゆえ、某ひとりが……」
それはあの冬の日以来、氏勝がずっと投げ掛け続けてきた問いであった。おのれに向かって。あるいは天に向かって。それでもなお、答えは得られなかった。かように齢を重ねるまで生きても、なお。
「何ゆえ某は……生き続けてしまったのであろうかと」
若き主はそんな氏勝の姿を見て、ふっと優しげに笑った。そしてそっと手を伸ばすと、ひび割れた頬をそっと撫でる。
「のう半三郎……そなたの人間は、愉しかったか?」
その答えははっきりとしていた。されど即座に答えるのは躊躇われた。胸を裂くようなうしろめたさに耐えなければならなかったからだ。それでも、主に向かって偽りを口にすることもできなかった。
「愉しゅうございました……それはもう、目も眩むほどに」
そう答えたことで、ようやく氏勝は顔を上げることができた。すると目の前の笑顔に、もうひとりの主の若かりし姿が重なって見えた。
「半三郎は幸せにございました……されどその幸せを噛み締めるほどに、うしろめたさも募るのです。もしかしたら某は、間違っているのではないかと……某はあの日、変わり果てた帰雲の地を目の当たりにしたとき、ただちで腹を切らねばならなかったのではないかと」
これまで、決して口にしてはならなかった言葉。言葉にしてはならなかった内心。それがとうとう、乾涸びた喉から漏れ出してしまっていた。
「某はこの都を、まことはあの帰雲の地に築きとうございました……それが、若殿との約定ゆえ。されどその約定、某は果たすことができませなんだ」
それでもおのれは、生きていて良かったのか。かように老醜を晒すまで、生きてきてしまって良かったのか。それは赦されることであったのか。さような人間に、はたして何かの意味などあったのか。
頬を撫でる指先は、依然として柔らかかった。そして、「……何を申す」と、穏やかで、されど力強い声が耳に届いた。
「半三郎……よう生きた。よう働いた。そなたは、我らの誇りぞ」
ああ、やはりこれは夢だ。氏勝は再び思った。そうでなければ、かような言葉が聞けるわけがない。
そうはわかっていても、氏勝は乾いた目が熱を帯び、どうしようもなく潤んでゆくのを感じずにはいられなかった。まったく、おのれはどこまで都合のいい夢ばかり見るものか。どこまで罪深いのか。わかっていても、喜びに打ち震えずにはいられなかった。
山下市正氏政はこと切れた父の面差しを見つめながら、ふっと苦笑いを漏らした。悲しむべきことではない、とわかっていたからである。この人はもう十分に生きた。生きられる限りに生き切った。まさに大往生である。何を嘆くことがあろう。
悲しみが湧いてこない理由はそれ以上に、何よりその死に顔にあった。見ていると、心から穏やかにその死を受け入れられそうに思えてくる。
「まこと……母上の申されていた通りよ。父上は眠っておられるときのほうが、よっぽど良い顔で笑われる」
「……まったくで」と頷いたのは、弟の氏紹であった。その背後にはかの者の子や孫たちも居並んでいる。他にももうひとりの弟である時氏と、その子らも。どの顔にも、やはり悲しみの色はない。幼子たちはもしかしたら、目の前に横たわる老人は幸せな夢に微睡んでいるだけに思えているのかもしれなかった。
かくして山下大和守氏勝は、名古屋にて八十六年にも及ぶ生涯を閉じた。亡骸は今も、名古屋市内の法華寺に納められている。
山下市正氏政はその十年後、私婚姻の咎により改易され、尾張を追われることとなる。されど舅である金森氏に匿われ、山下道安と名を変え、美濃の下原旅館(この当時の旅館とは、国境の兵の武具や兵糧を管理する砦のことである)の主として余生を過ごしたという。
つまり氏勝は、父を殺したのと同じ金森によって、子を救われたということになる。これもまた、歴史の妙というものであろう。
~~了~~




