(三)
そして九月、氏勝は妻子を伴って江戸へと発つこととなった。ただし長子の萬寿丸はすでに元服して市正氏政と名乗り、従兄である正信の麾下となっていたため、そのままひとり名古屋へと向かうこととなった。
長く過ごした駿府の屋敷を去る際には、お松もさすがに寂しげな顔を見せていた。姉や父とも、また離れて暮らすこととなる。されど「……済まぬな」と声をかけると、かの女性は構いませぬとばかりに首を振る。
「これよりは、家族ともに過ごす機会も増えましょう。楽しみにございます」
慥かにここ数年は駿府と名古屋を行き来してばかりで、それはそれで寂しい思いをさせてしまっていた。そんな中で氏政のあとも、四男三女の子を産み育ててくれたことは、氏勝としても感謝している。これからはもう少し、子供たちと顔を合わせる機会も増えると良いと思っていた。
「それにしても、なぜかように荷物が多くなったのか。向こうでも要り用のものは用意してあるはずだが……」
「そういうことではないのですよ。やはり、愛着あるものというのは手放せないものなのです」
とはいえここから江戸まで、荷車四台を引いてゆくのは大変であろう。おかげで古くからの家人の他にも、新たに下人を数名雇わなくてはならなくなった。さらにお亀からも餞別代わりとして、女御衆のうちのひとりが遣わされてきていた。
氏勝はその女御にそっと歩み寄り、声を落として呼び掛けた。
「生きておったか、藤七。先の戦以来姿を見ぬゆえ、死んだと思っておった」
「あたしも、そう思っていたんですけどねぇ……」
藤七は妙に色気を感じさせる薄笑いを浮かべて答えた。ただし声だけは、いかにも苦々しげだ。
「なぁんで生きているんでしょう。あたしにもわかりゃしません」
「そうか」と、氏勝は心よりの安堵を顔に浮かべた。その表情が珍しかったのか、藤七は素で驚いたように目を瞠る。
「我もそう思っていたときがあったものよ。されど生を繋いだのであれば、四の五の言わずにただ生くれば良いのだ」
それだけで良いのだ。そう繰り返すと、藤七はまた困ったように首を振る。
「まあ色々ありまして、忍びとしてのお役にはもう立てる気はしません。されど、奥方さまのお世話をいたすくらいであれば……」
「わかった。ならば、頼むぞ」
それを聞き届けると、藤七は静かに離れていった。離れ際に、「それがいちばん、質が悪いんですけどねぇ……」とだけ言い残して。何のことかと氏勝は一瞬訝ったが、すぐに気にしないことにして荷駄へと戻って行く。
「では、参ろうか」
そう声を掛けると、お松は嬉しそうに「はい」と答えた。
※
義利を初代とする尾張徳川家は、のちに和歌山城へと封じられた頼宣(頼将)の紀州徳川家、頼房の水戸徳川家とともに徳川御三家と呼ばれ、二百六十年にわたって幕府を支えることとなる。
義利は元和七年(一六二一年)、諱を義直と改めると、領内の灌漑整備や新田開発などもみずから指揮し、石高の増産に努めた。また学問を好み、家康の遺品として受け継いだ「駿河御譲本」を元に、現代の図書館の原型とも言える「蓬左文庫」を設立したことでも知られている。武に於いても柳生兵庫助利厳に学んで剣を修め、新陰流第四世宗家ともなった。そして齢五十一にて薨じるまでの三十余年の間に、のちの尾張藩の繁栄の礎を築き、厳格にして無私の名君として歴史に名を残すこととなる。
江戸へ移った氏勝は藩の饗応役に就き、幕府や諸大名との関係強化に努めた。かの者は宴の席にて、桃山期にすでに絶えて伝承する者がいなかったはずの「享燕の式」なる作法を完璧に再現してみせ、衆目を驚かせたとも伝えられている。また名古屋城に将軍秀忠を迎えた際にも歓待を取り仕切り、見事な手際で義直を大層喜ばせたとのことだ。
以後は元和九年(一六二三年)には尾張藩饗応惣奉行、寛永六年(一六三〇年)には惣奉行、同十年(一六三三年)に大寄合組頭と歴任し、長きにわたって尾張藩と義直の治世を支え続けた。
また、こんなこともあったという。
義直とお春の方の関係は良好であったが、残念なことに子宝には恵まれなかった。そこで世嗣ぎを案じた周囲は側室をとることを進言するが、義直はお春の方の心持ちを慮ってか頑として応じようとしなかった。ついには幕府より土井大炊頭までがやって来て強く勧められ、渋々受け入れた側室との間に男子をもうける。されど義直はよほど不本意であったのか、この子をわが子と認めようとせず、面会しようともしなかった。
幼子を不憫に思った相応院は、問題の解決に妹のお松を頼った。そして子は江戸へと送られ、氏勝のもとで養育されることとなる。そして二歳になった暁に、江戸へ上った義直に面会させた。義直も氏勝の説諭によってこの子を嫡男と認め、おのが幼名であった五郎太丸の名を送ったという。この幼子が、のちの尾張藩二代・光友である。名古屋と江戸に離れたのちも、相応院ことお亀の方が誰より信じ頼ったのは妹のお松であり、氏勝であったということだ。
されど寛永十九年(一六四二年)、氏勝は病を得て目の光を失い、家督を嫡男の氏政へと譲ってすべての役目を辞す。そして名古屋に戻って隠居し、道智と号した。
そしてさらに時は流れ、承応二年(一六五四年)十一月。




