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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
五. 摂津大坂の燃ゆる城
93/99

(二十八)

 幸村は衝撃に上体をのけ反らせつつも、鞍から転がり落ちるのをどうにか堪えた。されど右腕の感覚はなく、馬上筒も取り落としてしまっていた。ただし、手応えはあった。そう確信して、左腕一本で手綱を操り馬首を返す。弓の敵手はそのまま一町ほど走り過ぎ、やがて止まった。

 手傷を与えたようには見えなかった。されど馬上の男はゆっくりと、手にしていた弓を軽く掲げて見せる。それは持ち手のやや上あたりで砕けたように折れ、半分ほどの長さになっていた。どうやら幸村が放った弾丸は、得物を破壊したのみに終わったようだ。

 照準は慥かに正中を捉えていたはずなのだが、手にしていた弓に当たって弾道が逸れたのであろう。さすがにそれは、意図してやったこととも思えない。とどのつまり、運もまたかの者に味方したというわけだ。

 では手傷を負った分、こちらの負けとするしかないか。そうは思ったが、どういうわけか口惜(くちお)しさはなかった。それに唯一の得物がその始末では、止めを刺すこともできまい。ならばここは、痛み分けとでも言うべきであろう。

 名も知らぬ男は折れた弓を、それでも大事そうに懐に抱えると、無言のまま再び馬の腹を蹴った。そして何ごともなかったかのように、軽やかに走り去ってゆく。

 味方の兵たちが我に返ったように矢を射掛けたが、そんなものが当たるとも思えなかった。案の定、矢はすべて自ずからその男を避けるように外れてゆく。その矢の雨の中を悠然と去ってゆくうしろ姿を、幸村はさばさばとした気分で見送っていた。名くらいは訊いておくべきであったかとも考えたが、それも無粋な気がした。

「……殿!」

 と駆け寄ってきた真田輿左衛門信国(よざえもんのぶくに)は、幸村の肩に刺さった矢を見て目を瞠った。されど幸村は平然と「……大事ない」と首を振る。そしてようやく思い出したように、家康の本陣のある天王寺口へと向き直る。

 そのときおおっという怒号が響き渡り、敵陣深く攻め入った海野六郎兵衛たちの勢に、ひと塊になった大軍が押し寄せてゆくのが見えた。

「何事じゃ、あれは……」

 信国が顔色を変えて絶句した。攻め寄せる軍勢の旗印は三つ葉葵、尾張徳川家のものだった。ひとたびは崩れ掛けながらも、よくぞ立て直したものよ。幸村は素直に感心する。あれでは六郎兵衛もひとたまりもあるまい。

 右兵衛督義利、やはりもっとも警戒すべき軍勢であったか。そして尾張勢が健在ということは。

「しくじったか、鹿右衛門……おぬしにしては珍しきことよ」

 ここへ来て、思いもかけぬことが続いているらしい。なるほど、これも戦というものなのだろう。結局は人のすること、すべて机上の算段通りとはならぬ。

 ややあって、泥塗れになった使番が息を切らしながら駆け寄ってきて、海野六郎兵衛の討死を伝えてきた。ともに攻め入っていた先駆け衆も総崩れとなり、勢いに乗った徳川勢はいよいよこちらへと押し出してきているとのことである。

「家康をかように追い詰めて……あと少しであったものを」

 信国が悲痛な顔で唇を噛み締めた。されど幸村はその肩を叩き、ゆっくりと首を振る。そして徒士が差し出してきた十字槍を、まだ動く左手でしっかりと受け取った。

「何を辛気臭い顔をしておる。ようやく、戦らしくなってきたではないか」

「……殿、されど……」

「まだまだ終わってはおらぬ。むしろ、ここからが華というものよ……おぬしらも今しばらく、戦を味わうがよいぞ」

 そう言って、おのが軍勢の右翼へと馬首を向ける。眠りから覚めた尾張勢に触発されたか、越前勢も混乱から持ち直し、反攻に掛かろうとしているようであった。逃散した兵も少なくないのであろうが、それでもまだこちらに倍する数は残っている。ならば十分、愉しませてくれることであろう。

 

 

 戦場のざわめきを遠くに聞きながら、籐七はよろよろと体を起こした。そうして足元に横たわる骸に目を落とし、無感動につぶやく。

「最後の最後に、命を惜しみましたね……鹿右衛門さま」

 ならば畢竟(ひっきょう)、身を捨てた者が勝つのが道理。その代わり、こちらにも十を超える暗器があちこち身を破り食い込んでいた。いずれも急所は外れていたが、当然すべてに毒が塗り込められていることであろう。その毒に頼って一撃必殺を狙わなかったことも、この男の敗因であったやもしれぬが。

 とはいえ、こちらも耐えられるのも限度がある。そろそろ意識も朦朧としてきて、立っているのでやっとであった。それでもまだ、倒れるわけにはいかない。

「へへっ……そいつが、忍びの矜持ってやつでさぁね」

 誰に言うでもなくつぶやいて、籐七は小さく笑う。そして胴丸を肩から外し、草摺も脱いで、素足で歩き出す。獣がおのれの骸を隠すようなもの。こうして人知れず、誰のものともわからぬ骨となるのが、忍びの死にざまというものだった。

 激しい筒音はまだ聞こえてくる。戦はどうなったのか。徳川は勝ったのか。それを慥かめることは、どうやらできそうになかった。結局長いこと仕えることになってしまったあの御仁も、その御仁が我がこと以上に入れ込んでいた若君も、はたして無事でいるであろうか。

 無事であるならば、今後もその行く末を見届けたい思いもないではなかった。そんな情が移るくらいには、長いときを共に過ごしてきたのだ。されど、それは忍び風情には過ぎた望みなのであろう。

「では山下さま、(しか)らば……然らばでございます」

 苦しげに、されど心の底から満ち足りた顔で藤七は言った。そして重い足を引きずりながら、ゆっくりと歩き続ける。戦場に背を向けて、さらに遠くへ。

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