(二十七)
いかな駿馬とはいえ疲れが出はじめたのか、あるいは矢が尽きつつあるのか、こちらが隙を見せるたびに射掛けてきていた矢が先ほどから途絶えていた。大きく円を描く足取りも、ずいぶんゆっくりとしてきている。幸村ほうも様子を窺おうと、何度か距離を詰める振りをしてみたのだが、それに対する反応もなかった。
されど、決してまだ油断はできなかった。おそらくこのままでは埒が明かぬと考えて、誘いをかけてきているのであろう。ぴりぴりとした殺気は依然として消えていない。迂闊に距離を詰めていけば、こちらの間合いに入る前に迎え討たれる。
ただし、埒が明かぬのはこちらも同じであった。その上馬の息も、だいぶ苦しげなものに変わりつつある。右府秀頼を半ば脅すような形で、城中でも一番の駿馬を貸し出させたのだが、そろそろ限界らしい。たとえ誘いであっても、それに乗るしかないのが正直なところであった。
行くしかないのか。そう心を決めると、またぞくぞくと総毛立つような感覚が襲ってくる。こちらの決意を感じ取りでもしたのか、名も知らぬ敵手から伝わってくる気の質も変わった。ぴんと静かに張り詰め、細く鋭く研ぎ澄まされてゆく。
ああそうだ、幸村はやっと気付く。おのれはきっと、こうならざるを得なくなるのを待っていたのだ。どうしようもなく追い詰められて、乗るか反るか、生きるか死ぬかの階に立たされるこのときを。まるでおのれはこの一瞬のために、世に生を受け過ごしてきたのだと思えるような。
幸村は大きく息を吐き、兜を突き出すようにして馬上で身を低く構えた。手綱を掴んだ左手は、しっかりと胸に抱え込む。頭。首。心の臓。それさえ守れればいい。あとはくれてやる。元よりこの化け物相手に、無傷で勝ちを収められるとは思っていない。ただ一瞬で命を貫かれさえしなければ、次の瞬間に必ずこの弾丸を撃ち込んでやれる。
少しずつ馬の脚を落としてゆくと、円の向こう側で敵も同じように進みを緩める。また鎧の上にすっくと立ち、大弓を握り直すのが見て取れた。ここで勝負をつける。互いにその意は一致しているらしかった。
やけに静かだ、と幸村は奇妙に思った。これが無心の境地というものなのか。あるいはこの戦場にある者すべてが、息を詰めてこの成り行きを見つめているのか。そのどちらなのかはわからない。慥かめている暇などなかった。もはや互いの姿から、ひとときでも目を逸らすことはできない。
そして永劫とも刹那とも思える沈黙ののち、空高くで鳶がぴいっと鳴いた。まるでその声が合図だったかのように、幸村と対手の男は同時に馬の腹を蹴っていた。これまでふたりで描いてきた円の中心に向かって、わずかに回り込みながら突進してゆく。
三、四町ほどはあった距離もみるみる縮まり、ほぼ二町ほどまでに迫った。幸村は馬上筒の銃口を持ち上げたが、まだ引き金は引かない。弓も放たれない。向こうも一度放てば、次に矢を番えている間はないことがわかっているのだろう。
まだ遠過ぎる。あと少し。もう少し。いよいよ一町を切って、相手の表情までが見て取れる距離まで迫ってくる。心を見抜け。息を感じろ。その瞬間を読んで、後の先を取るのだ。
音はもう、何も聞こえなかった。されど目に見えるものは何もかもが鮮やかで、舞い上がる土煙のひと粒ひと粒までもが見て取れる気がした。まるでここだけ時が歪んでいるかのごとく、すべてがゆっくりと動いている。その瞬間が近付くにつれて、さらにゆっくりと。おそらくは気が限界近くまで集まり、凝縮し、弾けようとしているからであろう。
愉しい、と幸村は心から思った。やはり、戦はいいものだの。おぬしもそう思うであろう、化け物よ。
筒音が響いた。それとほぼ同時に、燃えるような何かが右肩を貫いた。次の瞬間、二頭の馬は触れ合う寸前のところをすれ違って行った。




