(二十四)
辛うじて持ち堪えていた堤が決壊したように、いったん道が開けるとあとは一気呵成であった。歓喜の声とともに、兵たちは地を揺らしながらひた走ってゆく。それを左右に従えながら、左衛門佐幸村は悠然と馬を進めていた。前方では猛り狂った徒士たちが、逃げ遅れた越前兵をひとりずつ血祭りに上げているのが見える。
「海野さまはすでに敵の本陣に攻め入っておるようです。家康は馬印もそのままに、小勢を連れて逃げ延びたとのこと」
その報に、幸村は「……ふふ」と小さく笑う。「無様なものよ。それでも天下人かのう」
「されどその後は、敵の殿が思いの外手強く、いささか難儀しておるとか。さすがに海野さまといえど、千ばかりではそこまでかと」
「で、あろうの。ひとまずはそこで持ち堪えよと伝えるのじゃ。すぐに我らも向かうぞ」
そう言って、幸村はヤクの毛をあしらった采配を振るった。従う古強者たちも、勝利を確信したような声で「おうっ」と応える。
「ここからはもはや一本道よ。家康が首、必ずや上げるのじゃ。良いな!」
されどそう檄を飛ばしながらも、幸村はこの戦の推移に満足してはいなかった。これで家康の首級を挙げたところで、はたしておのれの勝利と言えるのか。何かが足りぬ。こんなはずではなかった。そんな思いを払えずにいる。
この戦は、ただ徳川を退ければよいというわけではない。できる限りの乱戦に持ち込み、誰しもが安寧に眠らされていた獣心を目覚めさせ、新たな乱世の呼び水としなければならない。されどそれにしては、あまりにも手応えがなさすぎた。徳川の腑抜けぶりは、どうやら思っていた以上であったようだ。
「……つまらぬ」
そうつぶやいてみてはじめて、幸村は気付いた。おのれはただ、血が湧き立つような戦がしたかっただけなのだと。この戦の先にあるものなどどうでもいい。武士に生まれた以上は一度でいい、万余の兵のぶつかり合いの中で、思う存分槍を振るってみたい。煎じ詰めればそれだけのために、さまざま謀を巡らせてこの大戦を仕立て上げただけだったのだ。されどいざ蓋を開けてみれば、何とも興醒めであった。
戦乱の果てについに天下を獲った徳川も、数こそは多いがさっぱり手応えがない。まるで木偶の集まりだ。これが戦なのか。戦とはこんなものなのか。あるいはまことに、誰もが牙を抜かれてしまったのか。安寧の中に微睡んで、猛る心を忘れてしまったのか。
ここまで幸村を追ってきた浅野但馬守が、急に追撃を止めてしまったことも気に入らない。いったい何があったというのか。兄の仇を眼前に捉えながら、ここに来て怖じけたとでもいうのか。あの男を焚き付けておのれを追わせたのも、むろん同士討ちさせて戦場を混乱させるという計略のうちでもあったが、同時に背を追われるひりひりとした焦燥感を味わいたいという思いもあってのことだ。あの紀伊守幸長の弟とあって多少は期待していたのだが、所詮はまた飼い馴らされた獣に過ぎなかったのか。
と、そのときであった。不意に首筋のあたりの毛が、ぞわりと逆立つような悪寒が走った。幸村は思わずうしろを振り返り、目を凝らす。
来る、ということだけがわかった。何かが来る。それが何かはわからぬが、とにかく剣呑なものが近付いてくる。
「いかがなされました、左衛門佐さ……」
前を走る馬上の兵が顔を振り向け、訝しげに何かを言いかけた。されどその言葉は、ひゅっという風切り音に遮られ、途切れた。ややあって兵はゆっくりと身体を傾がせ、そのまま鞍より転がり落ちる。空馬のうしろに遠ざかってゆく骸の眼窩に、鮮やかな鳥羽の矢が刺さっているのがちらりと見て取れた。
「な……何じゃっ!」
あたりの兵たちがざわめいた。されど、何が起きたのかを理解している者がいるのかどうか。そうする間にも、またひとりが低く呻いて馬から落ちた。慌てたように徒士たちが足を止め、幸村を守るように槍衾を並べる。どこかから射られたことはわかったが、いったいどこからかはわからなかった。
幸村は同じく馬を止め、「……見よ」と虚空を指差した。やがてゆらめく土煙の向こうに、一騎の武者が見えた。鐙の上に立ち上がり、馬上で取り回すには長すぎる大弓を構え、こちらへ疾駆してくる。それでもまだ、三、四町はあった。只人では中てることはおろか、矢を届かせることすら至難の距離だ。
「何だぁ……ありゃ」
徒士のひとりが、呆けたような声を漏らした。目は慥かにその姿を捉えていても、まだ現実のものとは思っていないようですらあった。そうするうちにも、幸村はまたぞくりとする寒気を感じて、咄嗟に身を反らすように上体を傾けた。次の瞬間耳元を掠めて、そして兜を削りながら、矢が通り過ぎて行った。研ぎ澄まされた本能のなせる業であって、それがなければ今おのれは絶命していただろう。一瞬のちにそう悟って、総毛立つような興奮がこみ上げてくる。
「お下がりください、左衛門佐さま。ここは我らが……!」
「……莫迦を申すな」
幸村は低い声で言って、徒士を掻き分けるように前へ出た。おのが口角が愉悦に吊り上がるのを、もはや堪えようがなかった。
「そっちこそ下がっておれ。おぬしらごときに釣り合う相手ではないわ」
単騎の武者はほぼ二町ほどのところまで近付いたところで止まり、矢を番えたまま動かずにいた。まるでこちらが応じるのを待っているかのように。いや、慥かに待っているのであろう。この我が、舞台へと降りてくるのを。
ならば、行くまでだ。幸村はそう決意して、手にしていた十字槍を投げ捨てた。おそらく相手はこれ以上距離を詰める気はないであろうから、槍など持っていても邪魔なだけである。
そして徒士に用意させていた馬上筒を受け取った。すでに弾も込められていて、火縄も点されている。堺で手に入れた、南蛮製の最新式であった。家康をこの手で仕留めるために用意したものだったが、ぶざまに逃げ惑う臆病者などよりも、ただ一騎にて敵中へと乗り込んできたこの者にこそ相応しかろう。
そうして幸村は、勢いよく馬の腹を蹴った。それを見てか、敵も再び駆け出した。




