(二十)
鬱蒼とした木々の茂る険しい山道を、家康は名も知らぬ若い兵の肩を借りながら登っていた。背後からは、早くも敵のものらしい罵声が聞こえてきている。捨ててきた本陣も、今頃はもう好き放題に蹂躙されていることであろう。
付き従う者は腹心である安藤帯刀と、その配下の十数名のみだった。あとは成瀬隼人正率いる五百ほどが本陣に残って真田勢を食い止めているが、それもいつまで持ち堪えられるか。まさかここまで攻め込まれるとは思っていなかった者も多く、そのため少なくない数の兵が戦うこともなく逃散してしまっていた。
「……無様な、ものよの」
息を切らしながらも、家康はそう自嘲する。自身はかようなこともあり得ると、ひそかに覚悟はしていた。されどまさかここまで早く、それも堂々と中央を突破されるとは思っていなかった。警戒していたつもりで、おのれもまた左衛門佐ら関ヶ原の生き残りを甘く見ていたのかもしれない。
「……もうよい」
小高い丘を登り切り、いくらか開けた場に出たところで、家康はそう言っておのれを抱きかかえていた腕を振り解いた。そうしてその場にぺたりと座り込み、大きく息をつく。
「もうここまででよい。わしももう疲れたわ」
「大殿、何を申されますか!」
帯刀は驚いたように叫ぶ。されどそれに対しても、家康は力なく首を振って苦笑するばかりであった。
「真田め……そこまでこの首が欲しいなら、くれてやるわ。そうしたところで、今さら何も変わらぬ」
そうして首を巡らせ、眼下に広がる戦場を見下ろした。先ほどまでおのれがいた本陣にも、すでに六文銭の旗が翻っている。されど成瀬隊も踏ん張っているらしく、そこから先へは進めずにいるらしかった。
「結局はわしもまた、乱世の男なのであろう。そのわしが死んでこそ、ようやく終わるということよ……ならばよいではないか」
おのれが死んだところで、すでに幕府の体制は盤石だ。秀忠も将軍として堂に入ってきたし、無事に独り立ちした義利と頼将もいる。真田がどれほど執念を燃やしたところで、今さら乱世に逆戻りなどしはしない。まったくご苦労なことだ。
「せめてこの首を餞にしてやろうぞ。それで満足して、冥府へと帰るがよい……悪鬼め」
誰に言うでもなくそう独り言ちたところで、また帯刀が「なりませぬっ!」と怒鳴った。そして家康の両肩を掴み、激しく揺さぶってくる。
「ならばこそ、大御所様には畳の上で大往生してもらいまする。それでこそ、まことに乱世は終わるのです。かようなところで死なせはいたしませぬぞ!」
そのとき、麓の戦場でおおうっという低いどよめきが起こった。見ると、辛うじて真田の後続を押し止めていた越前守忠直の軍勢が、ついに総崩れを起こしていた。そして大河の堰が切れたかのように、兵たちが波となって押し寄せてくる。その前に立ちはだかろうとしていた右兵衛督義利の軍勢も、いよいよここまでであろう。
「兵を集めよ!」帯刀が、傍らで呆然としていた鎧武者に命じた。「逃げた者も、まだそのあたりにおるはずよ。貝を吹け、再び呼び集めるのじゃ!」
まだ顔に幼ささえ見て取れる若武者は、その声にようやく我に返ったようだった。そうして「は……ははっ!」と答え、手にしていた法螺貝を鳴らそうとする。されどそれもうまくゆかず、ただすかすかという気の抜けた音を立てるだけだった。
「ええい……今の若い者は、法螺の吹きかたも知らぬのか!」
帯刀は堪らず若者から貝を引っ手繰ると、身を反らして力一杯に息を吹き込んだ。ぼおおっという見事な法螺の音が、空へ高らかに響き渡ってゆく。




