(十六)
もうひとつの攻め口、将軍秀忠が布陣していた岡山口でも、すでに戦闘ははじまっていた。こちらも天王寺口と同様、大野主馬らの突撃によって片桐市正且元・井伊掃部頭直孝らの先鋒が押し込まれ、あやうく前線は崩壊しかねないところであった。されど先の戦での失態を取り戻さんとばかりに駆け付けた前田筑前守、さらには細川越中守・藤堂与右衛門らの奮闘によって、ひとまずは態勢を立て直す。あとはこのまま反転攻勢に出るべく、総大将である秀忠の下知を待つばかりであった。
そのとき、細川家の足軽頭・藪新九郎は奇妙なものを目の当たりにする。落ち着きを取り戻し、隊列を整え直そうとしている兵たちの間を割って、一頭の黒鹿毛の馬が疾駆してくるのだ。鎧も兜も立派なもので、ひとかどの将であることは見ただけでもわかった。されど、それに続く徒士の姿はない。いったいどうしてただ一頭のみ、堂々と戦場を横切ってゆくのか。
「敵の間者か……いや?」
新九郎は咄嗟に馬首を返すと、瞬く間に通り過ぎて行った黒鹿毛を追った。そしてどうにか隣に並びかけると、必死で手綱をしごきながら大声で誰何した。
「何者ぞ、かようなところで何をしている!」
黒鹿毛の馬上の男は、見たところ四十半ばといった年輩であった。槍も大小も帯びてはおらず、背に馬上で扱うには大きすぎるほどの弓をひと張り背負っているだけだ。
「我は細川越中守が臣、藪新九郎じゃ。いずこへ行かれる、答えよ!」
そう名乗ったところで、男はようやくこちらに顔を向けた。何やら驚いたように、わずかに目を見開いている。
「内匠さまのお子か……立派になられたものよ」
疾駆する馬上にあるとは思えぬほどの飄々とした声で、男は言った。新九郎は思わず「……なっ」と言葉に詰まる。
「前に会うたときはほんの童であったの。お父上の大きな声に、泣いてばかりいたものを」
「ちっ、父をご存知か……貴殿はいったい……」
「山下大和守と申す。お父上には、半三郎がよろしく言っていたと伝えてくだされ」
男はそう言うと身を大きく揺らして、馬の腹をひとつ蹴った。すると黒鹿毛はぐいと加速し、新九郎の馬をみるみる引き離してゆく。
「まっ、待たれよ……!」
新九郎はそれ以上追いすがることもできず、とうとう諦めて馬の足並みを緩めさせた。そして肩で大きく息をつきながら、たった今聞かされた名を口の中で繰り返した。
「山下、大和守……半三郎?」
その背は見る見るうちに遠ざかり、やがて味方の兵たちの陰に隠れて見えなくなった。




