(十二)
先行していた本多勢の馬印が敵中に呑み込まれるのを目の当たりにして、浅野采女正長重は馬上にて呆然としていた。先駆けとして本多勢が突撃を開始したので、それを助けるため下知もないままあとに続いたものの、それははたして正しい判断であったのか。突撃が失敗に終わったのが明らかな今、おのれはどうするべきなのか。引くか、あるいは進むのか。されど敵の勢いはすさまじく、今から救援に向かったところで本多勢を助けられるとも思えない。
どうする、どうする。長重は何もわからないまま、ただ空唾を飲み込むしかできなかった。この浅野家三男は、関が原の折は幼少であったため、兄たちとともに戦場に立つことは叶わなかった。初陣となった先の冬は、戦らしいことは何もしないままに終わった。だからかような戦闘は、これがまったくはじめてのことだったのである。
むろん戦の何たるかは、父や兄たちから色々と聞かされていた。されど当然、見ると聞くとではまったく違う。地を震わせるような鬨の声。さらに具足を鳴らす音が無数に重なって、もはや誰の声も聞こえないほどだ。むっとする熱気に鉄錆にも似た血の匂いが混じり、息をすることも難しい。そして何よりこの場に充満した闘気、なかんずく殺気に、何もせずとも身をすくませてしまう。
「あ……あ、ああ……」
喉からはただ、そんな呻き声だけが漏れてくる。やがてその目が、山肌を駆け下りてこちらに迫ってくる敵を捉えた。それはまるで波のように広がって、どこにも逃げ場がないように思えた。
「見よ、あれなるは浅野の旗印!」
馬上の将が、耳を圧するほどの怒号を発した。そして槍を真っ直ぐにこちらに向ける。
「太閤殿下の恩義を忘れ、徳川に与する不忠者を許すな。討ち取れいっ!」
「殿下……恩義、だと……」
長重は鸚鵡のように、その言葉を繰り返す。慥かに父長政からは、折に触れ豊臣への忠義を言い聞かされてきた。されど物心ついた頃から小姓として徳川に仕えてきた長重としては、会ったことすらない相手への恩義といわれても困惑するばかりである。
それでもやはり、我らは豊臣に与するべきであったのか。長兄である幸長が生きていればそうしたのかもしれない。されど次兄長晟からは、今の豊臣には決して与してはならぬと言い聞かされていた。大坂に集った牢人どもには、忠義など欠片もない。むしろ豊臣をかような窮地に追い込んだのはあの者たちだと。真に豊臣への忠義を果たさんとするならば、かの者らを残らず誅した上で右府さまの助命を請うしかないと。太閤になど会ったこともなく、ずっと仕えてきた徳川に今さら弓を引くことなど考えることもできなかった長重としては、救われたような思いでその言葉に従った。
されど今、こうして押し寄せる敵兵にすくみ上がりながら、それはやはり間違いだったのかと後悔する。おのれは不忠者であったのか。これは、それゆえの罰なのか。やはり父が言っていた通り、何を捨てても大坂に馳せ参じるべきであったのかと。
「……殿っ!」
そのとき、ようやく傍からおのれを呼び続けていた声に気が付いた。目を落とすとひとりの年輩の兵が、轡を取って馬首を返そうとしている。
「本多隊は総崩れにございます。ここは一旦下がり、越前勢と合力すべし。我らで食い止めますゆえ、殿はどうかお退きを!」
咄嗟には男の名が出てこなかった。慥か父の代からの家臣であることは何とか思い出せたが、そこまでだ。されど男のほうは、こんな情けない主君を身を張って守ろうとしてくれている。
「良いのか、こんな……不忠者の我を」
「しっかりなさいませ、殿!」
男が怒鳴りつけるように声を張り上げた。そして鎧の草摺を掴み、激しく揺さぶってくる。
「あのような戯言に耳を貸してはなりませぬ。兄君も申されておったではないですか。今この城に屯しておるのは、ただ戦がしたいだけのならず者どもに過ぎぬと。我らの殿が不忠などと謗られる謂れなどないわ!」
馬の嘶き、人の怒号。鎧と鎧がぶつかり合い、槍が肉を叩き削る。すでに先頭の兵たちは戦の波に呑み込まれていた。
「行かれませ、早く!」
男が馬の尻を槍の石突で激しく叩いた。同時に、手綱をしごきもせずに馬は走り出す。振り返ると、男もすでに背を向けて走り出していた。敵味方が入り混じる乱戦の中へ。
「待て、待つのだ……」そして長重は、ようやく男の名を思い出した。「待つのだ、内蔵助ぇっ!」
その男の名を、大石内蔵助良勝といった。良勝はこの合戦においてまさに獅子奮迅の槍働きを見せ、実に三十六もの首級を上げたと記録に残っている。
されどその奮闘も虚しく、浅野隊は二百を超える兵を失い敗走した。長重は辛うじて命を拾いはしたものの多くの家臣を死なせ、常陸浅野家はその後の藩運営にも支障をきたすほどの損害を負ったという。その中にあってめざましい武功を挙げた大石家は、浅野家が播州赤穂へと転封された後も代々筆頭家老を務めることとなる。




