(十一)
戦端が開かれたのは、正午を回ってしばしが経った頃のことであった。茶臼山南方数十間というところまで突出していた先鋒・本多内記忠朝の勢が放った挑発の銃撃に、毛利隊のやはり先鋒であった竹田藤四郎の兵が反応したのである。両者は威嚇の鉄砲を撃ち合うには距離を詰め過ぎてしまっていた。やがて先走った雑兵が敵陣へ打ちかかり、すぐに両軍入り混じっての乱戦へと変わった。
忠朝はこれを機と見て、三千の兵を一気に茶臼山へと進ませた。それを受けて、同じく先鋒であった浅野采女正長重・秋田城介実季らの勢も、ともに前へ押し出してゆく。
忠朝は本多平八郎忠勝の二男である。本家の家督こそは長兄である忠政に譲ったが、その父譲りの将器は兄よりも上と評されていた。また気性も父によく似て激しく、兵たちも泰平の世にあっても厳しく鍛え上げられていた。
ゆえに忠朝は、ろくに統制も取れておらぬような牢人どもに押し負けるなどとは露ほども思っていなかった。兵の数こそ慥かに多いが、すぐに浅野や秋田も、さらにそのあとから越前宰相忠直の勢も続いてくるはず。このまま豊臣の軍勢を茶臼山から蹴落とし、裸の城へ追い詰めてやれる。勲しにもそう目論んでいた。
されどある程度まで進み入ったところで、堅い壁にぶつかったように急に勢いが鈍った。さらに敵はいつの間にか左右に広く展開し、側面を突くように回り込んでくる。後方を振り返れば、後続の浅野・秋田勢の姿は見えず、自軍が最前線で孤立してしまっているのがわかった。
そこに至ってようやく、忠朝はおのれが罠に掛かったことに気が付いた。戦がはじまってみれば、寄せ集めのはずの牢人衆は驚くほどに組織立っていて、一糸乱れぬ連携で本多勢を誘い込み、分断した上で幾重にも包囲していた。すべては最初からの目論見通りというわけだ。
忠朝は息を呑み、眼前の小高い山を見上げた。その頂に翻る、血のような赤に白く染め抜かれた六文銭の旗。それは三途の川の渡し賃、まさに立ちはだかる者を冥府へ落とす悪鬼の旗であった。その旗のたもとには、漆黒の悍馬に跨り、兜の下から長く白い蓬髪を靡かせる男の姿があった。
「真田……左衛門佐!」
その名をつぶやいた絞り出すような声は、すぐに轟いた鬨の声にかき消された。そうして右から、左から、前から。一斉に、鎧武者の群れが押し寄せてくる。
本多平八郎忠勝の子にして父にも並ぶと謳われ、家康からの信頼も厚かった上総大多喜藩主・内記忠朝は、かくして茶臼山にてその生涯を閉じた。その齢、まだ三十四という若さであった。




