(九)
端緒となったのは、またしても浅野であった。婚礼の儀を見届けて和歌山へ戻った長晟の元に、大坂よりの使者が現れたのである。そして太閤への恩義と秀頼への忠義を説き、豊臣方への同心を迫ったという。
されど長晟はこれを拒み、使者をすげなく追い返した。すると大坂方はすぐさま兵を挙げ、浅野領への侵攻を開始する。まずは大野修理の弟・主馬正治房が三千の兵を率い、長晟の盟友でもあり同じく豊臣への参陣を拒否した、筒井主殿定慶の守る大和郡山城を落城させた。そして各地で一揆を扇動しながら、塙団右衛門・岡部大学助らを先鋒に、紀州へと攻め寄せたのである。
これを知った長晟は、五千の兵をもって和歌山城を出陣する。慶長二十年、四月二十九日のことである。そして巧みな用兵で敵を樫井の地に誘い込むと、地の利を生かしてこれを包囲、そして一気に殲滅した。団右衛門や淡輪六郎兵衛ら多数が討死、岡部大学助はほとんどの兵を失い、這う這うの体で敗走することとなった。
主馬正治房はやむなく紀州から兵を引き、返す刀で徳川の兵站基地でもあった堺を攻め、町を焼き払った。これを受けて五月五日、ついに家康も京を発ち、大坂へと進軍を開始する。
徳川勢は河内路と大和路の二手に分かれて南下した。水野日向守勝成を先鋒とした分隊は大和路を進み、道明寺にて待ち構えていた豊臣勢を撃破、後藤又兵衛らを討ち取った。そして河内路を進んだ藤堂与右衛門高虎ら本軍は、八尾にて長宗我部土佐守盛親と遭遇、激戦の末に敗走させる。
相次ぐ敗戦に、豊臣方は兵をすべて大坂へと引き上げさせた。そうして残った七万余の軍勢をまとめ、いよいよ迫った徳川の大軍に対峙する。実質的な指揮官でもある左衛門佐幸村は、みずから最前線である茶臼山に布陣した。
対する徳川方は総大将である秀忠が岡山口に、また家康は幸村のいる茶臼山を睨む天王寺口に本陣を敷いた。その数は総勢十五万。さらには紀州路より、一揆を鎮圧し筒井の残党を吸収した但馬守長晟の軍勢が北上していた。
かくして、五月七日の夜が明けた。山の稜線から顔を出した朝日が、静かに対峙する総勢二十万余の兵たちの姿を浮かび上がらせる。大坂の陣最大の激戦と言われる天王寺口の合戦の、火蓋が間もなく切られようとしていた。




