(七)
義利のその危惧は、さほどの間も置かずに現実味を帯びはじめた。和議が成り、ほぼ丸裸となってもいまだ、牢人たちは大坂城に居座ったまま立ち去ろうとはしなかったのである。そして豊臣家から手切れとして渡されたはずの金子で武具を買い集め、あろうことか一度埋められた堀を勝手に掘り戻しはじめた。それらは明らかに和議における協定破りであり、再度の戦支度と見做す他はなかった。
秀忠率いる幕府軍のみを伏見に残し、いったん駿府へと戻っていた家康も、これは看過できなかった。ただちに豊臣方へ向けて、大坂からの移封か牢人たちの退去、どちらかを受け入れるよう求めた。されどもはや大坂城は完全に牢人たちに占拠されている状態で、豊臣の旧臣たちの中にもかの者らに感化される者も現れる始末であったという。やむなく家康は留守居役であった小笠原兵部に兵を預け、伏見の守備として向かわせた。
そして四月四日、家康は駿府を出立して名古屋へ向かった。その途上で豊臣方にあって交渉役を務めていた大野修理の使者を迎え、秀頼の大坂よりの移封は受け入れられないとの返答を受ける。それでも牢人たちの退去についてはなおも努力しているところのようで、今しばらく時をくれとのことであった。
世はさように不穏な空気を漂わせながらも、四月十二日。徳川右兵衛督義利と春姫の婚礼の儀が此度こそ、盛大に執り行われた。和歌山を発った春姫の輿に続く列は一里にも達し、その道中には見物の民たちが群がったという。これは「できる限り華やかに、盛大に」という氏勝の求めに長晟が応じたものであったが、その後名古屋に於いて婚儀が豪奢なものになったのは、これがきっかけであったと言われている。
婚礼のあとの宴は真夜中まで続き、日が替わってもなお愉しげな声は絶えなかった。されど氏勝はその輪から離れ、真新しい床板の張られた本丸御殿を出た。そうして城下を見下ろすと、そこにもまだいっぱいに明かりが煌々と並んでいる。誰もみなこの日が来るのを待ち望んでいたのであろう、歌い踊る民たちの声がここまで届いてくるようだった。
久しぶりの酒で火照った身体を冷たい風に晒していると、ふと背後から近付いてくる足音を聞いた。振り返ると、見上げるような大きな影。今宵の主役のひとりである、花嫁の叔父・浅野但馬守長晟であった。
「かような場所でどうされたのですかな、傅役どの」
「但馬守さまこそ。良いのですか、宴を抜けてしまわれても?」
巨漢の大名はどこか気の抜けたような笑みを浮かべながら、城下を見下ろす氏勝の隣に並びかけた。そうして小さく首を振り、「……良いのですよ」とつぶやくように言う。
「我はこれにてお役御免でございましょう。肩から重い荷を下ろした心地にござる」
長晟にとって春姫は、兄から託された大事な忘れ形見との思いもあったのであろう。紆余曲折ありながらも無事にこの日を迎えられたことで、万感込み上げるものもあるのかもしれなかった。
形こそ違えど、それは氏勝もまた同じような心持ちであった。何より、この婚儀を献策したのはおのれなのである。あの日から、気が付けば十と三年の月日が流れていた。
「お春をこれほど温かく迎えていただいて、兄もきっと喜んでいることでございましょう。まことにありがたきことにございます」
「いえ、某こそ……これで紀伊守さまとの約定を果たすことが出来申した」氏勝は長晟にまっすぐ向き直ると、恭しく頭を垂れた。「但馬守さまにはひとかたならぬご尽力をいただき、まことに忝なく思っておりまする。どうか今後も我が主、右兵衛督をよしなにお願いいたし申す」
「とんでもございません、山下どの」長晟は慌てたように言った。「忝なく思っておるのはこちらにございますぞ。さ、どうぞ頭をお上げくだされ」
言われるままに頭を上げると、氏勝よりも頭ひとつは大きい巨漢は、岩のような顔を柔らかくほころばせた。
「わが紀州浅野家も、いまだ難題が山積みにございます。我もまた力不足を痛感させられるばかりにて、右兵衛督さまのお力添えを頼りにしておるのです。何とぞ、今後もよしなにお願いいたしますぞ」
「何を申されるか」と、氏勝はゆっくりと首を振る。「但馬守さまは兄君にも劣らぬ、立派な大名となられた。先の戦でも見事な戦いぶりであったとか」
戦の端緒となった木津川口砦の戦いでは、指揮を取ったのはあくまで蜂須賀阿波守であったが、援軍に駆け付けた浅野勢の働きも目ざましかったと聞いていた。大坂方の抵抗を封じ、瞬く間に砦を奪い、敵を城内へと引き返させたのも、精強な浅野兵と長晟の巧みな采配によるものであったと。
「右府さまを相手どっての戦、複雑な思いもあったことでしょう。心中お察しいたします」
「いえ……それはよいのです」
長晟はそう言って、また目を城下の明かりへと向けた。
「今の大坂はもはや、ならず者の占拠した砦に過ぎませぬ。それも右府さまの弱さが招いたことであれば、致し方なきこと」
そうは言いつつも、長晟の目が痛みを堪えるように眇められるのが慥かに見て取れた。それは見るべきではないものなのだろうと悟って、氏勝はそっと目を逸らす。
「そんな弱きお方ゆえ……兄君は、右府さまをお守りしたかったのでござろうな」
「さて……兄はいったい、何を守ろうとしていたのであろうか。我にはもう、それもわからぬのでござる」
まるで血が滲むような声で、長晟は続けた。それは父が守ろうとしてきたもの、そして兄が守ろうとしてきたものとの、そして浅野家にとってはおのが身の一部と言っていい部分との訣別の言葉であった。
「もはや今の豊臣を守る気には……守ることは、出来申さぬ」
氏勝は半ば俯いたまま、きつく握り締められた拳に目を落とす。爪がきつく食い込んで、血さえ滲んでいるそれを見て、ようやく理解した。長晟は兄の死について、何かしらの確信を得たのであろうと。誰よりも敬愛した兄を殺めたのは、何者であったのかということについての。
その姿に、氏勝もまたひとつの確信を得ていた。豊臣と徳川、その再びの衝突はもはや避けられまいと。そしてそれは、江戸と大阪の安寧を質として家を守るというおのれの策の破綻をも意味していた。




