(六)
年が明けて慶長二十年一月。駿府へと戻った義利を、お亀の方は安堵の色も露わな明るい表情で迎えた。本陣の後詰として後方に控えることになっていた義利と頼将の軍勢は、ある意味もっとも安全な場所に配置されていたも同然であった。それでも母親としては気が気でなかったのであろう。
「ともあれ、無事に帰ってきて何よりです。お前たちもよく右兵衛を守ってくれましたね」
同席した正信と氏勝にも満面の笑顔を見せて、お亀はそう労った。同じく初陣であった正信が無事であったことも、やはり嬉しいのであろう。どちらもかの女性にとっては、同じくおのが子である。
「とはいえ、結局は戦らしい戦もありませんでした。我らはずっと後方で、遠くに城を眺めていただけ。いささか拍子抜けでございましたな、殿」
正信もすっかり緊張が解けたのか、そう顔を綻ばせる。されど義利だけは、まだ何かを思案し続けているような表情のままであった。
「どうしたのですか、右兵衛?」
その様子に気付いたお亀が、義利の顔を覗き込むように身を乗り出して尋ねた。されど義利は母親を案じさせまいとしてか、小さく笑って首を振る。
「いえ……何でもありませぬ。我もこうして無事に帰って来れたことを嬉しく思っております」
「そうですか……それなら良いのですが。どこかに傷など負ってはおりませぬな?」
そのようなことは、と義利はまた否定する。その遣り取りをちらと見て、正信はくすりと笑って言った。
「殿が上の空なのも仕方ありませぬ。こうして戦が終わったからには、先延べになっていた祝言の支度に取り掛からねばなりませぬからな。落ち着かぬのも無理なきことかと」
「そうか、そうであったな。そちらのほうはどうなっておるのだ、大和?」
思い出したようにまた弾んだ声で、お亀は尋ねてきた。氏勝は「……はっ」と頭を下げて、「もちろん、準備は滞りなく進めておりまする」と答える。
義利と春姫の祝言は、本来なら昨年のうちに執り行われることとなっていた。されど間の悪いことに、この戦がはじまったために日延べとなってしまっていたのだった。浅野家のほうも準備は万端のようで、今か今かとその日を待ち望んでいるとのことだ。ならばこれ以上の日延べはできない。氏勝も挨拶を済ませたら、すぐに名古屋にとんぼ返りしなくてはならなかった。
されど義利が心ここにあらずなのは、そのことのせいばかりでもないようだった。むしろ祝言のことなど、すっかり忘れてしまっている。
「……殿」と、氏勝は静かな声で言った。「ここには殿のお身内しかおりませぬ。お心の裡は、何でも打ち明けるがよろしかろうと存じます」
まるで心根を見透かされたような言葉に、義利はわずかに驚いた様子を見せ、肩越しに背後の傅役を振り返った。そして小さく大人びたため息をつくと、背を伸ばして母親に向き直った。
「では申し上げます……我は、ずっと考えていたのでございます。此度の戦は、いったい何のためのものであったのかと。父上はかような戦はしとうなかったと申された。右府さまとて、徳川に恨みがあるようなことは申されてはおられなんだ……では何ゆえ、誰が何を望んで、かようなことになってしまったのかと」
そう、この若き大将は戦の間も、ずっとそのことを考えていた。とはいえ嘆いているわけでも、また憤っているわけでもない。ただただ知りたかったのだ。それはまるで、世の理を探るがごとく。
「されど戦はもう終わったのでございます。終わったことをあれこれと悩まれましても、詮なきことにございますぞ?」
正信が横からとりなすように言う。その声はおのが言葉に露ほどの疑いも抱いておらぬ明るいものだった。されどその正信に、義利は「……そうであろうか」と返す。
「この戦、まことに終わったのであろうか。我にはそうは思えぬのだ」
「ではこの和議も、いずれはまた破られると?」正信は信じられないとばかりに声を上げた。「それはあり得ませぬ。豊臣方は城の外堀はおろか、二の丸と内堀の破却にまで応じたのですぞ。もはや大坂城は丸裸も同然。さような城で戦はできぬことくらい、いくら何でもわかっておりましょう」
そう、それがこの和議における、徳川と豊臣の取り決めであった。豊臣方にとってはほとんど降伏にも等しい大幅な譲歩であったが、拍子抜けするほど簡単にそれを受け入れた。交渉に当たった豊臣の旧臣たちにすれば、もう戦はできぬとわかれば牢人たちも城を捨て、勝手に去ってゆくと考えてのことと思われた。かの者らも、あまりに我が物顔で振る舞い、いつの間にか戦を主導しはじめていた牢人たちに辟易していたのだろう。
「されどそれに対して、牢人たちはさして異を唱えなかったと聞きまする。それは何ゆえなのであろうとも考えていました。それで思ったのです。あるいはそれさえも、この戦を煽った者の思惑通りだったのではないかと」
義利は氏勝を振り返り、小さく頷きかけてきた。それで、この主がおのれと同じことを考えていると確信する。
「大和、そなたは申したな。静謐など、満たされている者のみが良しとするものだと。ならば今辛酸を舐めている者たちは何を望む?」
「それは当然この静謐が崩れて、乱世へ逆戻りすることを望むでありましょうな」
氏勝がそう答えると、義利は硬い表情でもう一度頷いた。
「そうだ。されどそれは、ただ戦を起こせばいいことか。それだけで、この静謐は崩せるのか?」
「……否、でございましょうな」
「そうだ。それだけでは駄目なのだ。まして先の戦のような、堅い城壁を挟んでの睨み合いなど……何者かは知らぬが、この戦を仕組んだ者はさぞ不本意であったろう」
つまりは家康が、その不本意なありさまに持ち込んだということだ。そうした意味でも、この戦は徳川の勝利であったと言えよう。
「戦はまだ終わらぬ……それも次の戦こそは、さらなる戦乱の呼び水であらねばならぬ。兵たちがその身を晒して、血で血を洗うものであらねば」
まことの標的は、伊達・上杉・佐竹といった、徳川方にいる諸将たち。徳川に飼い馴らされ、戦を忘れた獣たちの中に眠る、乱世の血を呼び醒ますことだ。結局のところは大坂に集った牢人たちも、また秀頼ですらも、そのための生贄に過ぎぬわけか。まったくこれを仕掛けている者は、まさに悪鬼と呼ぶしかない。
「その戦は、さぞ凄惨なものになるであろうな……」
義利が囁くように付け加えたそのひと言に、正信がぶるりと身を震わせるのがわかった。されどその凍り付いた空気を払うように、氏勝はすっくと立ち上がる。
「では、こちらも負けてはおれませぬな」
それを斜に見上げながら、お亀の方が訝しげに尋ねた。「というと……何をするのですか?」
「もちろん、祝言の支度にござります。急ぎ名古屋へ戻らねば」
「されどまた戦ともなれば、此度も先延べとなるのではありませぬか?」
不安げなその言葉に、氏勝は毅然として首を振る。「いえ……ならばこそ、もう日延べなどしてはならぬのです」
名古屋の城下は、すでに民たちの移転も滞りなく済み、あとは主の入城を待つばかりである。新たな、静謐な世の象徴となるべき都。その歴史のはじまりは、この婚礼の儀こそが相応しい。
「尾張徳川家の総力を挙げて、この上なく華やかに、我らの姫をお迎えしとうございます。敵が世を再び戦乱へと引き戻さんとするならば、こちらは高らかに乱世の終わりを遍く謳い上げるのです。これこそが我らの戦と心得ましょうぞ」
「そうですな……叔父上!」正信も大きく頷いて、立ち上がる。「我も参りましょう。こうはしておられぬ」
では御免仕る。そう言い残して、ふたりは足早に去って行った。その背中を見送ると、お亀はやれやれとばかりに小さく息をつく。。
「まったくあの男は……熱いのか冷めておるのかわかりませぬ」
そうして義利と顔を見合わせ、くすりと笑った。




