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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
五. 摂津大坂の燃ゆる城
66/99

(一)

 その事件が起きたのは、明けて慶長十九年の夏のことであった。

 江戸開府とともにはじまった天下普請は、主に西国の諸侯に対して費用と人員の供出を命じられていたが、その中に豊臣家は入っていなかった。当初名古屋城の普請助役に加わるようにと打診もしたのだが、やはり秀頼の生母である淀の方が強硬に反発したのである。家康も豊臣との摩擦を避けるために、それ以上無理強いしようとはしなかった。ただその引き換えにというわけでもないが、秀頼は父である太閤秀吉の追善供養として多くの寺社の修繕・新造に取り掛かっていた。主なものでは東寺の金堂、延暦寺中堂や北野天満宮の他、尾張の熱田神宮や石清水八幡宮など義利にも縁のある名刹(めいせつ)も含まれていた。

 そのうちのひとつに、文禄五年の慶長伏見地震によって倒壊した京の方広寺(ほうこうじ)があった。この寺は天正十四年に焼損した東大寺に代わる大仏殿を持つ寺として、父秀吉によって創建されたものだけに、その再建には秀頼もひときわ力を入れていた。そしてその春には普請もほぼ終わり、あとは大仏の開眼供養を待つばかりとなっていた。

 その経緯は惣奉行である片桐市正(いちのかみ)且元(かつもと)によって幕府へも逐一報告されており、その順調ぶりは家康をも大いに満足させていた。されどいよいよ大詰めとなったところで、どうしても看過できぬ問題が発生した。それは鐘堂の大鐘に刻まれることになっている銘文にある、「君臣豊楽」「国家安康」の二箇所であった。幕府はそこに大御所の(いみな)である「家康」の二文字を見出して、激怒したのである。

 この、のちに「方広寺鍾銘(しょうめい)事件」と呼ばれることとなる一件は、現在では豊臣を戦で滅ぼしたがっていた徳川による言い掛かりという見方が一般的である。「家康」の二文字をふたつに分かちたことが、大御所の死を願う呪詛であると解釈したことが、いかにも強引な印象を受けるというのがその理由であろう。されどその印象はあくまでも、現代の価値観によるものであることは考慮しなくてはならない。

 このとき幕府側がもっとも問題としたのは、ふたつに分かつ以前にまず、「家康」という諱を(おおやけ)に犯したことであった。見解を求められた東福寺・南禅寺など五山の僧侶たちも、何よりそのことを前代未聞の暴挙と回答している。「諱」というのはまさしく「忌み名」である。仏教における戒名のようなものといえばわかるだろうか。当時の武家社会では、あくまでも死後の呼称とされるべきもので、相手が生きているうちは他者が(みだ)りに口にしてはならぬものとされていた。それを寺の鍾銘に刻み付けるなどということは、まさしく広く世に向けて大御所を死者として扱ったも同然なのである。つまりは、すでにそのこと自体が呪詛にも等しい行為であると言えるのだ。その上それがふたつに分かたれているとあれば、いかにとんでもないことか想像がつくであろう。

 もちろんこれが意図的でなく、たまたま紛れ込んだ文言である可能性もあるだろう。ただそのすぐ近くに「君臣豊楽」という「豊臣」を織り込んだ文言が並んでいることを考えるに、その可能性は低いと言わざるを得ない。しかもこちらはあくまでも姓であり、「秀頼」という諱は犯されていないのだ。その扱いの差を鑑みても、やはり徳川方としてはどうあっても問題にせざるを得なかった。

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