(十八)
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同じ頃、高野山の麓の小さな村でも、ひとりの将がその生涯を閉じていた。将の名は真田安房守昌幸。武田の旧臣でありながら、主家滅亡後も権謀術数を駆使して織田・豊臣と泳ぎ渡り、太閤秀吉をして「表裏比興の者」と言わしめた梟雄であった。関が原戦の直前に徳川を裏切り石田方に付き、上田城にて秀忠の五万の軍勢を翻弄し、決戦に遅参させたことでも知られていたが、そのために戦後改易され、長き蟄居の身に甘んじていた。そしてその蟄居はついに解かれることなく、この地にて果てたというわけである。
そしてその報は徳川・豊臣方双方の将たちを、少なからず安堵させた。所領をすべて没収され、自由を奪われながらもなお何をするかわからぬ怪物として、敵味方どちらからも恐れられていた男であったのだ。されど安堵するのはまだ早いということを、このときはまだ誰も気付かずにいた。
かつて老人がいつも腰を掛けていた庵の縁に、痩せこけた壮年の男が蹲り、足元の小さな送り火から立ち上る煙を目で追っていた。煙は夏にしてはひんやりとした風に煽られて、すぐに霧のように散ってゆく。
男はその煙に目を向けたまま、ぽつりとつぶやいた。「父上は身罷ったぞ。ひと足遅かったな、鹿右衛門」
夜闇の中には、煙と風にそよぐ木々の枝の他に動くものはなかった。されど声だけがどこからともなく降ってきた。
「殿には、才蔵という名をいただきました」
「ほう……わしには鹿右衛門のほうがよき名だと思えるがの」
壮年の男は微笑むと、ゆらりと立ち上がった。そしてしだらなく伸びた髭をゆっくりと撫でながら、闇の中に問いかける。
「して、才蔵よ。おぬしはどうするのだ。父上はもうおらぬ。それでもまだ、続けるというのか?」
されどその問いに、応えはなかった。それはつまり、答えるまでもなしということであった。
「止む無し、か。父上はこのわしに、偽りの安寧を突き崩し、世を再び混迷へと導く策を授けられた。ときは満ちた。今こそ立ち上がるべしとな。よいか?」
そう再び問うたとき、叢を割ってひとつの人影が進み出てきた。それは男のよく知る顔であった。
「……六郎か」
「はっ」と、影はその場に跪く。「海野六郎兵衛幸郷、罷り越しましてございます」
続けて風が鳴り、いくつもの影が闇の中に浮かび上がる。そのどれもが、同じように屈辱に耐え忍んできた父の家臣たちであった。男はその髭面を、苦々しげに顰める。
「愚か者どもよ……もっと利巧な生きようもあったろうに」
それでも満足げに、男……真田左衛門佐幸村はつぶやいた。
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この二条城会見後の数年間、正確に言えば慶長十六年から十八年の間には、豊臣方・徳川方問わず著名な将たちの逝去が集中している。特に会見に関わった者の中でも、直後の十一年四月七日には常陸にて浅野弾正少弼長政が。六月二十八日には熊本にて加藤肥後守清正が。そして押し詰まった十二月三十日には、完成したばかりの名古屋城二の丸御殿にて、平岩主計頭親吉が息を引き取っている。さらには慶長十八年の一月三十一日には、同じく二条城に居合わせていた池田武蔵守輝政も姫路にて急逝した。むろんすでに高齢であった者もおり、そのすべてが不審であるとは言わぬが、やはり偶然というには重なり過ぎていることは否めない。
氏勝と義利にとって大きかったのは、やはり主計頭親吉の死であろう。何より徳川家中において最大の庇護者でもあり、若き附家老の山城守正信にとっては師とも言える存在であった。その親吉を喪ったことでいよいよ尾張徳川家は、庇護下から離れてひとり立ちしなければならなくなったわけである。犬山城には成瀬隼人正が入り、親吉の所領のうち三万三千石を引き継いだ。そして正信と渡辺忠右衛門も名古屋入りし、義利を迎える準備も最終局面に入った。
されど慶長十八年八月、さらに氏勝らにとっては悪夢のような報が届く。祝言の支度が進む許嫁・春姫の父親であり、もうひとりの庇護者でもあった浅野紀伊守幸長が、和歌山城にて急死したのである。その齢まだ三十八歳という、あまりにも早すぎる最期であった。




