(十六)
大役を恙なく果たした義利を駿府へと送り届けると、氏勝は再び名古屋へと戻った。この頃には普請助役たちの手で、熱田の湊と名古屋を繋ぐ、のちに堀川と呼ばれることになる水路も完成していた。この水路によって材木を舟で運搬することが可能になり、解体された清洲城は建材となって、続々と名古屋へと運ばれていった。そうしていよいよ、名古屋城天守閣の建造が本格的にはじまったのである。
氏勝も依然として多忙を極めていた。どうやら前田家のために加藤家と浅野家を動かし、家康との仲立ちをしたことが知れ渡り、前にも増して口利きを求める者が殺到したのである。
ただしそのほとんどは、大御所の手を煩わせるまでもない些末な揉め事ばかりであった。それで結局は氏勝自身が出張って行って、町奉行に掛け合ったり、または直接談判するしかなくなってしまう。そうして余計な手間ばかりが増えていく次第であった。
そんな多忙にかまけて、氏勝も京でのこともいつしか忘れていった。藤七が顔を見たという剣呑な忍びのことも、ただの杞憂に過ぎなかったと。
そうして名古屋に戻ってふた月ほど経った、ある夜のことである。仮屋敷に戻りひと息ついた氏勝の元に、伝右衛門がふらりと訪ねてきた。この前田家普請役は、あれ以来度々この仮屋敷を訪うようになっていた。氏勝としても裏表のない実直なこの男と盃を交わすことは、多忙な日々の中のささやかな気慰みであった。されどその夜は温厚なこの者にしても珍しく、ひどく陰鬱げで険しい顔をしていた。
「かような遅くにどうなされた、小野どの?」
尋ねると、伝右衛門はまだ信じられないというように小さく首を振り、低い声で告げてきた。
「加藤肥後守どのが身罷られたとのことにござる」
氏勝はその事実がすぐには理解できずに、ただぼんやりと「……今、何と申された?」と訊き返すのみであった。
「だから、肥後守どのが身罷られたのです。帰途の船中で倒れられて、そのまま目を覚まされなかったとのことで……こちらに残っている加藤家の人足たちも、急ぎ引き上げると申しておりました」
「まさか……いったい何の病で?」
「まだそこまではわからぬが……おそらくは、瘡毒ではないかとのこと」
氏勝は思わず、あり得ぬと大声を出していた。むろん、瘡毒は決して珍しくはない病だ。されど命を落とすほど重くなっていたとすれば、見た目にもはっきりとわかる徴が顕れるものである。ついふた月ほど前に京で顔を合わせたときには、清正の様子にさような徴はまったく見て取れなかった。




