(十五)
幸長と別れて書院へ戻ろうとした氏勝に、具足姿の兵がひとり駆け寄ってきて、傍らに跪いた。幸長の手の者かとも思って足を止めたが、どうやら違ったらしい。
「少しよろしいですか、山下さま」
「……藤七か。紛れ込んでおったな」
「ええ、まあ……」と兵はちらりと顔を上げた。されど兜の下から覗いた顔は、常に飄々としたこの男にしては固いものだった。「急ぎ、お耳に入れておきたいことがありましたゆえ」
その様子に何かただならぬものを覚え、氏勝は声を落として「……何があった?」と尋ねる。
「以前より名古屋であった嫌な気配……それをここでも感じましたもので、少々探っていたのでございます。それでとうとう、ちらと顔を合わせてしまいました。わたしと同じように兵に紛れ込んでいましたが、あれは間違いありませぬ」
「顔を合わせた……何者とだ?」
「名は何とも。以前は鹿右衛門と名乗っておりましたが、この稼業で名などあってなきものですゆえ」
ということは籐七の同業、つまり忍びというわけだ。それもこの様子だと、相当に警戒すべき相手らしい。
「いや、はたして同業と言っていいものか……わたしのような小物とは格が違います。しかも何より、仕物が本領。それも一度狙われたらもう、諦めるしかない凄腕なれば」
「さような者が兵に紛れて、いったい何をしておるのだ」
「そりゃあ、どなたかを狙っておるのでしょうな。大御所さまか右府さまか。はたまた、右兵衛さまか」
氏勝は思わず「まさか……」と呻いた。もしもここが狙われているのだとすれば、警備が手薄に過ぎる。兵たちはいるといっても、その者や藤七に紛れ込まれて気付かない程度では当てにならないと言っていい。また秀頼に何かあっても、そのときは人質である義利たちが危うくなる。
「いるとわかっていて、おぬしは何もせぬのか?」
「あたしひとりでどうにかなる相手ではありませんや。それがわかっているから、向こうも放っておいてくれているのでしょうな」
つまりそれほどに力の差があるということらしい。しかし今この京には、家康が引き連れてきた伊賀者たちもいるはずだった。その合力を得てもどうにもならぬと言うのであろうか。
「ここにもいる伊賀者たちにも伝えましたけどね……余所者の言うことなんて信じていないようで。それにあ奴のことも、おそらく知りもしないでしょう。あたしだから知っているわけで」
「ということは、おぬしはその者と以前にも関わりがあったということか」
「ま、そんなところです。申し訳ありませんが、詮索はそのくらいにしてくださいな」
藤七はそう言って、氏勝の問いを遮った。そして立ち上がり、いっそう声を落として囁きかけてくる。
「ともあれ、お気を付けを。わたしもしばらくここに張り付きますんで、次に声を掛けたら右兵衛様を連れて、形振り構わず一目散にお逃げください。逃げ切れるかはわかりませぬが……」
「わかった」と、氏勝は小さく頷いた。「おぬしがときを稼いでいる間に、出来るだけ遠くへ逃げるとしよう」
「嫌ですよ……当然、あたしも逃げますからね。山下さまのことは嫌いじゃありませんが、命を擲つほどじゃあありませんや」
最後だけいつもの飄々とした口調に戻って、藤七は背を向けて戻って行った。そうして兵たちの中に紛れ込むと、すぐに見分けがつかなくなる。
それからの数刻を、氏勝はじりじりと焼けつくような緊張の中で過ごした。もちろんそうした内心は決して顔には見せず、義利や正信に悟られることはなかったが。
されど結果的にその日は何も起こらず、二条城における会見も無事に終わった。秀頼は室である千姫の祖父ということもあって家康に上座を譲り、互いに太刀と脇差を贈り合い、会見は終始和やかに進んだという。会見を終えると秀頼一行はすぐに京を発ち、再び楼船にてその日のうちに大坂へと帰り着いた。義利と頼将の主従も、それを船着き場まで見送った。
会見の様子を息を詰めて見守っていたのは、京大坂の民たちも同じであった。そしてそれが無事に終わったことを見届けて、一斉に喜びの声を上げたともいう。誰もが今度こそ乱世の終わりを信じ、天下はまことの安寧を得たのだと疑わなかった。
そして翌四月、義利と頼将は徳川よりの答礼の使者として大坂へと遣わされた。そして大坂城にて秀頼と淀の方に対面し、大刀と銀、紅花等を贈った。そしてこのとき秀頼より返礼として賜った高木貞宗の太刀は、長く尾張家に宝として伝わることとなった。




