(十四)
兵たちの元に戻るという幸長とともに、氏勝は書院を出た。すると幸長は、嬉しそうに目を細めて話しかけてきた。
「まったく右兵衛督どのは、お会いするたびにどんどん立派になられるな。これも傅役どのの薫陶あってのことか」
「さて……」と、氏勝は耳の上を掻きながら言葉を濁す。「我などは、何も。やはり大御所さまの血でございましょう」
幸長は義利の成長ぶりにすっかりご満悦のようであった。そんな様子を見ながらも、氏勝はどうしても気になっていたことを尋ねる。
「されど紀伊守さまは、まことにそれでよいのでございますか。此度の会見は表向きには、右府さまは徳川の求めに応じて上洛したことになります。それは則ち、豊臣が徳川の配下になることを認めたことになってしまいますが」
これまでのところは実態はともかく、形の上では徳川は豊臣の臣という体を保ってきた。かの関ヶ原の大戦も、秀頼を奉じて奸賊石田治部を討つというのが大義名分であった。その立場もこの会見によって、ついに名実ともに逆転してしまったと言っていい。
「それも仕方なかろう……わかった上で、この話を持ち掛けたのだ。実際、豊臣は徳川に生かされておる。いい加減、認めねばなるまい」
それは苦渋の決断であったのだろうが、幸長の顔に口惜しさや苦々しさは見て取れなかった。そうしたものは、すでに覚悟の上で飲み込んだのだ。
「何より大事は、豊臣を存続させることよ。そのためには、見栄や体面など邪魔でしかない。捨てるべきものは捨ててしまったほうがいい。そう思ったまでのこと」
「右府さまは、それもすべて承知で?」
「一度お会いすればわかるであろうよ」幸長はそう言って振り返った。「あの方はお父上のような才気や、ましてや野心など持ち合わせておらぬ。されど十分に聡明なお方で、おのれが天下を統べる器ではないことをよく理解されておる。そんな右府さまを、我はどうしても守って差し上げたいのよ」
氏勝はさようですかと頷いた。おそらく幸長は純粋に、右大臣秀頼という若者の身を案じているだけなのだ。もしかしたらそのためには、豊臣という家さえ捨ててしまってもいいと思っているのかもしれない。
「山下どの……まことのところはどうなのだ。大御所さまは、豊臣をどうしようと思っておられるのか」
「さて……大御所さまの内心まで、某にはわかりませぬよ。されど巷間言われているように、近々大坂を攻め滅ぼそうと本気で思っておられるなら、このような会見はいたしますまい。したとしても江戸か駿府へと呼び付けて、応じぬのを征伐の口実にされていたことでしょう」
そうは言ってみても、幸長はまだ得心したようには見えなかった。依然としてこちらの本心を探ろうとするように、じっと真剣な視線を向けてきている。
「ならば、山下どのはどう考えておる。豊臣は、残すべきか。あるいは滅ぼすべきか。ただ徳川の臣としてのみの答えを聞きたい」
氏勝はほっと安堵した。おのれについてならば、迷いなく答えることができる。
「以前にも申した通り、某の主はただ右兵衛督さまのみ。ゆえにその立場のみで答えるなら、豊臣には存続していてもらわねば困りまする。徳川と豊臣、江戸と大坂。そのふたつがあってこそ、尾張名古屋の繁栄がありまする。日の本という扇の要としての繁栄が」
その答えに、幸長は可笑しげにくすりと笑った。「そなたの頭にあるのは、まこと右兵衛督どののことばかりなのだな」
傅役ですゆえ。氏勝も精一杯の笑顔めいたものを作って答える。そうしてゆっくりと、幸長と並び歩き出した。
「豊臣が存続することは、今のところ徳川にも利がございます。そのうちは、大御所さまも豊臣を潰そうとは考えますまい。ゆえ、大事なのはその利を保ち続けること。さすれば永劫、徳川は豊臣を生かし続けることでしょう」
「利、でござるか。なるほどの……」
「紀伊守さま、肥後守さまのようなお方が、豊臣ある限りは徳川に牙を剥かない。それは徳川にとって大きな利なのです。ゆえにどうぞこれからも、変わらず豊臣を支え続けてくださいませ」
そしてそれは、浅野家と徳川を繋ぐことになる尾張徳川家にとっても利となる。この春には頼将と肥後守清正の娘である八十姫との婚約も決まったが、それを推し進めた安藤帯刀も思うところは同じであろう。
「おふたりが刀を収めていれば、他の豊臣恩顧の皆さまも従いましょう。違いますか?」
「まあ、おそらくはな。あとはかの御仁さえ、大人しくしていてくれさえすれば……」
そうぽつりとつぶやいた幸長に、氏勝は訝しげな目を向ける。「かの御仁、とは?」
幸長は暫しの間迷ったのち、意を決したように口を開いた。
「ひとりだけ、どうしても気を許せぬ御仁がおるのよ。長き蟄居の身なれど、ひとたび動き出せばまったく先が読めない……ことによっては周囲のすべてを巻き込んで、混乱と破滅に引きずり込みかねない化け物がの。今はただ、あの御仁が静かにしていてくれるのを祈るばかりぞ」
そう語る声音には、隠し切れない怖気のようなものさえ滲んでいた。まるでそれが乗り移ったように、氏勝もぶるりと身を震わせる。
「その御仁の名は?」
そう尋ねると、幸長はひとつ静かに頷いて答えた。「真田……真田安房守よ」




