(八)
もちろん過去の経緯についてまでは話すことはできなかったが、とりあえずここで起きたことだけを伝えると、藤七は些か呆れたような表情で「……なるほど」とつぶやいた。
「まあ、そっちは正直案ずるまでもないことかと。金森ごときにここで騒ぎを起こせる度胸はありゃしません。何しろ今ここには、怖いお方が大集合しておりますからね。それに比べれば、金森なんぞそれこそ木っ端でございます」
まあ、それはわかっている。ただやはりどうしても胸のどこかに引っ掛かっていたことだったので、慥かめておきたかっただけのことだ。
「ですが念のため、騒動の種は除いておきますか。この先あれこれと手を焼かされるのも困りものでございましょう」
「おぬしは、仕物(暗殺)もこなすのか?」
「まあ、あまり得手ではありませぬが」
と、藤七はこともなげに笑った。とはいえ氏勝としても、そこまで大事にするつもりもない。もちろん本心を言えばこの城にあのような男が関わって欲しくないが、それはあくまでも私事である。今は尾張徳川家の家臣として、普請がつつがなく進むことを優先させなければならない。
「止めておけ。今はそれよりも、おぬしの言う嫌な気配のほうが大事よ」
もちろんこの男の思い違いということもあり得るが、警戒は厳にして過ぎることはない。この普請には、万にひとつの瑕もあってはならないのである。
「あと考えられるとすれば、やはり上さまであろうか?」
あくまでも風聞であるが、幕府は伊賀者の御庭番の他にも、剣術指南役である柳生の一族の者を諜者として使役しているとも言われている。一部では裏柳生などとも呼ばれているその者たちの、毛色の違いが藤七に嫌な気配を感じさせているということも考えられなくもなかった。
「それもなきにしもあらずと言ったところでしょうが……どうも済みませんね、曖昧なことしか言えなくて」
藤七はそう苦笑して頭を下げた。氏勝は「……構わぬ」と首を振る。
「ともあれ今は、どうぞ気を抜かれませんようにとのみお伝えしておきまする。こちらも当分は、山下さまの傍に居りますので、何かおありの際は頼ってくだされ」
そうさせてもらうとだけ答えると、藤七は音もなくふわりと立ち上がり、溶けるように夜の闇へと消えていった。何だかんだでこの男とも長い付き合いである。その腕前はそれなりに信頼してもいる。少なくとも、おのれの身辺については任せてもよさそうだった。
※
鬱蒼とした木々の枝を、高野山の吹き下ろしの風がさざめくように揺らしている。その木々の合間には正円をわずかに欠いた月が浮かび、青い光でほとんど崩れかけたあばら家同然の庵を照らしていた。
庵は無人というわけではなかった。その縁にはひとりの痩せた男が座り、月を見上げながら静かに酒杯を傾けている。老人であった。乱雑に結った蓬髪も、長く伸びた髭もすっかり白い。袖や裾から覗く手足も、枯れ枝のように痩せこけている。されど両の目だけは、月光を集めたように爛々と光っていた。
「五郎太石、というものを知っておるか、才蔵?」
老人がぼそりと、闇に向かって呼びかけた。その声の先の叢には、いつの間にかぼんやりとした人影が跪いていた。
「巨石を積んで石垣を築く際に、最後に楔として埋め込む石よ。それによって石が堅く締まり、城の強靭な土台となるのだ」
闇の中から応えはなかった。されど老人は、淡々とした声音で独り語りのように続ける。
「されど同時に、石垣の弱点ともなる。その五郎太石を除きさえすれば、堅固な石垣さえ崩れ去る。いとも脆く、な」
老人はまた椀を傾けると、その手を月に向かって掲げてみせた。その目の先に、見えない石垣が高く聳えているかのように。
「さて……天下はますます静謐。されどその堅固な石垣の、五郎太石はどこであろうの」
それでも必ずあるはずだ。老人はそう確信していた。もちろんこの石垣ははるかに複雑にして難解。場所だけでなく、時宜も大事である。ともすれば、おのれの命のほうが先に尽きるやもしれぬ。
されど老人は絶望などしていなかった。たとえこの身が持たずとも、そのときは息子がいる。この十余年、手ずから磨き上げてきたおのが分身。必ずや、この意志を受け継いでくれるに違いない。
「静謐なぞまやかしじゃ。人は、そう簡単に変わらぬ。そのときまで精々、泡沫の夢を見ておるが良い……徳川内府よ」
老人は呪詛のようにしゃがれ声でつぶやくと、低く、されど満足げに笑った。




