(六)
それから遷府の準備が進むにつれ、名古屋の氏勝の仮屋敷を訪ねてくる者も多くなってきていた。その多くは遷府に伴う苦情であり、抗議でもあった。やはり清州の町衆たちには、居を移すことへの抵抗も少なくなかったらしい。商人たちはこれまでと同じように商いを続けられるのか不安を訴え、寺の住持たちは由緒ある地を離れることを拒み、悪所の者たちはこれを機に排斥されるのではないかと疑心暗鬼に囚われていた。氏勝はそうした者たちにも丁寧に遷府の意義を説き続けたが、交渉は難航していると言わざるを得なかった。
されど明けて慶長十五年(一六一〇年)一月、ついに石垣の普請がはじまると、その不安もすぐに解消した。普請助役の大名たちが職人や人夫たちを大挙して引き連れてきて、名古屋は忽ちのうちに大変な賑わいになったゆえだ。中でも加藤肥後守は切り出した角石を引き運ぶ際、石を毛氈で飾り立てた上、容姿美麗な小姓を乗せて歌い踊らせ、見物人を呼び寄せた。さらには道々に酒肴餅豆をばら撒いて歩いたものだから、まさに突然の祭りの如き騒ぎとなった。その上京より三百人にも及ぶ妓女たちを呼び寄せ、万松寺にて連日勧進歌舞伎を開かせた。
その賑わいを見れば清州の町衆も、これが大きな商機であることがわかったのであろう。今までの不平はどこへやら、我先にと店を畳んで名古屋への移転に取り掛かった。氏勝も今度は、移り住んでくる町衆たちに新居を割り当てるので大忙しとなった。されどそれも清洲最大の商家である茶屋の当主・茶屋長意こと中島新四郎(初代茶屋四郎次郎・清延の三男)の協力によって、滞りなく進むようになる。困難に思えた遷府も、一転して何もかもが上手く回り出したようにも思えた。
「どうやら順調なようでございますね。何よりなことで」
そんなある夜のことである。不意の声に目を向けると、いつの間にか縁に小男がひとり腰掛けていた。こんな訪いかたをする者はひとりしかいなかった。
「たまにはちゃんと門から入ってきたらどうだ、藤七」
「日陰者には日陰者の振る舞いってもんがありまさぁ。ご無体なことは言わないでくださいな」
この夜は以前のように、どこかの商人風の姿に戻っていた。どうやら女に化けるのは、駿府の城に潜り込むときだけらしい。ちなみにこの藤七のことは、お亀の方にもおのれが雇った謀者であると伝えてある。それゆえたまに姿を消しても、不審に思われずに済んでいる。
「それにおぬしには、お方さまの周辺を任せてあったはずだが?」
「いやあ、その必要はありませんや。あの城にゃ、大御所の手の伊賀者が虱のようにうろつき回っていますゆえ。それにあの連中とは、どうも反りが合わないといいますか……」
「ということは、おぬしは伊賀の出ではないのか」
そう鎌をかけてみたが、藤七はへらへらと笑うだけで何も答えなかった。どうやら依然として、おのれの素性については何も話す気がないらしい。まあそれならそれでいい、と氏勝も問いを変える。
「して、今宵はいったい何の用だ」
「いえね、用というほどのことでもないのですが……」と、藤七は勿体を付けるように言葉を濁した。「ただ、気は抜けれませぬようお声がけまで。好事魔多しとも言いますゆえ」
「言われずともわかっておる。それとも何か穏やかならぬことでもあるのなら、隠さずに申せ」
どうも藤七の歯に物が挟まったかのような言い種が気になった。慥かに皮肉屋ではあるが、こうした持って回った調子は珍しい。
「穏やかならぬ、とも言い切れませぬが……ちと、気になることが」
藤七はまだ迷いながらも、ようやくそう切り出してきた。
「この名古屋にも、伊賀者があちこち潜んで目を光らせておる様子ですが、その中に嫌な気配がひとつ」
「気配というと、やはりおぬしの同類……忍びか」
それならば、さほど気にすることもないように思えた。何しろ今この名古屋には、二十からの大大名たちが集結しているのだ。みなそれぞれに手の者を引き連れて来ているであろうし、その中には護衛の忍びも少なくないはずだ。そう告げると、藤七もそれは承知しているようだった。
「だとしても……やはり引っ掛かるので。念のため、お気を付けをと思いまして」
「どこの者なのか、おぬしにさえもわからぬのか?」
「我ゆえ、気配に気付いておるのでございますよ。他の者たちは、いることにすら気付いていないはずです。それほどの手練れですゆえ、気になるのです。それにどうやら、山下さまのことも嗅ぎまわっているようですし」
「我のこともか……まさか、出雲守の手の者か?」
「出雲守……さて。何か心当たりでも?」
そう問い返されて、氏勝は「……何でもない」と言葉を濁した。されど藤七の訝しげな目に負けて、三月ほど前のちょっとした出来事を打ち明ける。




