(三)
城では、上段の間の家康を主計頭親吉が訪っていた。翌日には親吉も犬山城へ戻るとあって、またしばしの別れである。小窓からはちょうど正円となった月が覗け、旧友と一献酌み交わすには良い夜であった。
「大和守め、また面白げなことを言い出したものよのう」
「まこと、相済みませぬ」
親吉はそう困り顔で笑って、頭を下げた。されどその顔は苦々しげではあっても、昼間氏勝らに見せるものとも違う柔らかなものでもあった。
「損な役回りだのう、七之助。まことは、おぬしこそが誰より心躍らせておるであろうに」
「清州からの移転は、中将さまもお考えのことでしたからな」
実は中将忠吉もまた清洲の問題に手を焼いて、拠城を移すことを検討していたと聞いている。かように早く病に倒れることがなければ、今頃はその準備に着手していたことであろう。ただしそれも政務の中心のみ犬山に移し、清洲は清洲で支城として存続する考えであったようだが。
それだけに、城下町ごと何もない那古野へ移すという考えには親吉も驚かされた。そしてしばし呆気に取られたのちに、知らず胸の裡が沸き立っているおのれがいた。慥かに相次ぐ悲劇に沈んだ家中の空気は、このくらいのことはしないと晴らせぬであろう。
されどさすがに、やろうとしていることが大規模に過ぎる。城にしたって徳川の分家であれば、そこらの城と同じでは済むまい。それこそ天下にその威を示すものでなければならぬ。その上さらに城下町まですべて整えるとなると、はたしてどれほどの財を吐き出すことになるか。幕府を開いて五年、いまだ足元が定まったとは言えないこのときに、さほどの険は冒せまい。
「とはいえ今はまだ、待ってもらうしかないでしょう。むろん、我の死したのちは好きにせよと思いまするが」
「おぬしはそれで良いのか。あの男が何をしようとしているのかを、見たいとは思わぬか」
「では、殿はやらせてみろと仰るので?」
家康はすぐには答えず、黙って杯を口に運んだ。されどその口元には、どこか悪戯めかした笑みが浮かんでいる。
「幕府にも尾張にも、いまださほどの財はありますまい。ともすれば幕府の台所が傾きかねませぬ」
「別に、おのれの懐を痛める必要もあるまい」
家康は酒を傾けると、その熱き息とともにぽつりと言った。
「幕府には今、江戸城の普請を行わせておる。本丸も石垣も徹底的にな。その財は、すべて外様の諸侯の懐からよ」
「まさか尾張でも、すべて諸侯に出させると?」
家康はゆっくりと頷いた。「そのまさかよ。江戸が終われば、次にこの駿府の普請に取り掛からせるつもりでおる。そのあとはどうするか、頭を悩ませておったのよ。ちょうどいい……打ち出の小槌じゃ、思う存分振るってやれ」
「されど諸侯とて、さほどの余裕があるわけではありますまい。人も財も限りがございましょう」
「それでも出させるのよ。余裕があろうがなかろうが、乾涸びるまで搾り取るのじゃ」
そこで親吉も、家康の考えを理解した。つまりそれは、城の普請そのものが目的ではないのだ。主たる狙いは、諸侯に財を吐き出させ、その力を削ぐことにある。幕府に反旗を翻すこともできなくなるまで。
「……諸侯の不満は高まりましょうな」
「だが、何もできぬ。案ずるまでもない」
「さようなことまでせねば、ならぬのでしょうか」
「ならぬのだ」と、家康はきっぱりと言い切った。「表向きは乱世も終わりと大人しく振る舞っておっても、どいつも皆ひと皮剥けば獣のままよ。その性は、ちょっとやそっとで変わるものではない」
おそらく家康自身、おのれの身の裡に獣が棲んでいることを自覚しているのであろう。ゆえにわかるのだ。人間の本質は、そう簡単に変わらないと。
「ならば、無理に押さえ込む以外にあるまい。身の裡の獣が眠るまで……あるいは、乱世の記憶を持つ者が死に絶えるまで」
親吉は「……なるほど」と得心したようにつぶやいた。この者とて乱世の男である。また同じように、身の裡にどうにもならぬ獣を飼っているひとりに他ならない。
「いっそ盛大な城を築いてやることじゃ。誰にも攻める気を起こさせぬような……そう、大坂城をも凌ぐ巨城をな。それこそがまさに、天下静謐の証。あの大戦のあとに生まれた右兵衛にこそ相応しき城よ」
そこまで言われてしまえば、親吉とて認めるしかなかった。そうして小窓から月を見上げ、高く聳える巨城を思い描く。今なお牙を研ぎ続ける獣たちを睥睨し、屈服させる王の城を。




