(十五)
氏勝と正信は堀の外へ出ると、街道沿いに馬を走らせた。そうして近郷の高台に上ると、眼下に清洲の城下を眺め渡す。あたりに高い山もないため、周囲に広がる水田の向こうに熱田の湊、さらに青々と広がる海原までが見通すことができた。
何かに得心したように、「やはりな」と氏勝は頷いた。それを怪訝そうに見ていた正信が、おそるおそる尋ねてくる。
「叔父上。先ほどの者が申していた地震というのは……」
気が付けばあれからもう、二十有余年が経ってしまっていた。まだ十六歳の正信は知りもしないのだろう。
「竹越どのが生まれる前のことにございます。大きな……それは大きな地震が起きました。もはや日の本中を揺り動かすほどのもので、某もいよいよ世の終わりが来たかとも思ったものです」
そしてまさに、氏勝にとっての世は一度そこで終わったも同じだった。されどそこまでは、正信に話すことはできない。
天正十三年の大地震の正確な震源は、現代でもまだ判明していない。被害地域があまりに広範囲にわたり、ひとつの地震と考えるといっそ辻褄が合わなくなってしまうからだ。奥飛騨では帰雲山の山体崩壊によりひとつの城と集落が呑み込まれた。他にも倒壊した城は著名なものだけでも美濃大垣城、越中木舟城、阿波勝幡城、近江長浜城、伊勢長島城と枚挙に暇がない。さらに日の本を挟んだ両岸である若狭湾と伊勢湾で津波が発生し、沿岸に大きな被害を出した。このことからも今では、複数の活断層が連動して起こった複合型地震であったのではないかという説が有力となっている。
そしてこの清洲でも、近年似なって行われた地質調査によって大規模な液状化現象が起こったことが確認されている。天正十四年の織田信雄による大改修も、その被害を受けてのものであったのであろう。ただしそれでも根本的な解決にはならず、以後の城主たちによっても小規模な補修・改造は繰り返し行われてきたようであった。
さらにはこの時代、中央構造帯周辺の断層は活発期にあったとみられている。天正地震ののちも文禄五年(一五九六年)の慶長伏見地震など大規模な地震が頻発していた。記録に残らない中規模な地震まで含めれば、それこそ数え切れまい。そのためこの地域の液状化に伴う地番沈下は、もはや慢性的なものとなっていたに違いない。
「されど地震があったからといって、まことに泥水が噴き上がってきたり、地が沈んだりなどするものなのですか。我にはどうも想像もできませぬが……」
「このあたりの土は、水気を多く含んだ砂地のようですからな。濡れた布を絞ると水が滴るようなものにございます。地が激しく揺れたことで、その水気が地表に染み出してきたのでしょう」
「地の水気が……そのようなことが起こるのですか」
「つまり、清洲は土地そのものが緩いのでございます。いくら堅固な城を築こうと、足元が脆ければどうしようもない」
氏勝はそう言って、苦いため息をついた。かような土地に我らが殿をお迎えせねばならぬとは、と暗澹たる心持ちになる。
「それにご覧なさいませ。何か思い出すことはありませぬか?」
そう言って、氏勝は正信をおのれの隣に招き寄せた。若者はしばし眼下を眺め回したあとで、今ひとつ自信なさげに言った。
「何となく、ではありますが……忍城と似ておりますね」
「さよう。天然の川を利用し、さらに二重の堀を巡らせて、一見すると防備は万全のように見えまするが……川下に堰を築かれれば、忽ちのうちに水浸しでござる」
「水攻めでございますな。つまり、守るにも難しと仰りたいので?」
その通りであった。なるほどこの若さで大役に抜擢されるだけあって、この正信も知恵が回る。
「慥かに築かれた当初はこの構えでも間違っていなかったのでございましょう。ただし、戦のほうが変わってしまった。あるひとりの御仁が、根本的に変えてしまわれたのでございます」
すべては、豊太閤秀吉というひとりの天才の為したことであった。ただ槍を交え弓を射掛けるのみであった城攻めというものを、緻密に兵糧を数え上げ補給路を封じて干上がらせるものに変えた。それゆえかつての定石も、まったくの愚策へと堕してしまったのだ。されどこの城は、いまだ古い戦を引き摺ったままである。江戸の守りの最前線とも言えるこの尾張の本拠が、かような城でいいはずがなかった。
「では叔父上は、どうするべしと仰られるのですか?」
「それを考えておりまする」
そう言って、氏勝はまた馬に跨った。そうして台地の縁を伝うように、ゆっくりと移動してゆく。正信ら供の者たちも同じように、馬でそのあとを付いてきた。
やがて馬は台地の中でもひときわ小高い丘の上に着いた。そこで氏勝は、規則的な間隔で地に埋められている岩の列に気付いた。自然のものではない。明らかに、人の手によって設けられたものだった。
「これは……何かの礎石であろうか。屋敷……いや、城か?」
そうつぶやくと、正信が懐から紙を取り出して広げた。どうやらこのあたりの絵図を持参していたようだった。
「この辺は慥か、中将さまが鷹狩りに使われていた場所とのことでしたが……」
氏勝は馬を降り、身を屈めて岩を見た。天辺は平らに削られていて、何かが載っていた痕跡が残っている。やはり建造物の礎石で間違いないようだった。
「叔父上、何をされているのですか?」
ついには地に伏せて観察をはじめた氏勝を見て、正信も慌てて馬を降りてきた。それもお構いなしに、氏勝は並んだ岩を真横から見通している。そしてそれぞれの天辺の高さが、明らかに測ったように水平に揃っていることを慥かめた。
「竹腰どの。これはやはり、何かの建物の跡に間違いありませぬ」
「ええ、されどかようなところに屋敷など……いや、これでござろうか?」
正信は絵図を食い入るように見つめ、ようやく何かを見付けたようだった。氏勝は地に伏せたまま、続く言葉を待った。
「ここには以前、織田家の城があったようにございます。ただし棄却されてずいぶん経つようですが」
「なるほど、やはり城でござるか。ただの屋敷にしては大きいと思いました」
おそらくまだ本格的な石垣が築かれるようになる前のものなのであろう。堀はあったのだろうが、棄却される際に埋められたか。ただそれよりも、今は瞠目すべきことがあった。
「いや、それにしても素晴らしい。まったく驚きましてございます」
「叔父上、何がでございますか。我にはただの岩にしか見えませぬが……」
「わかりませぬか、竹腰どの……この礎石ですが、今なおまったく歪みがないのです。今からでもこの上に、新たな城を築くことさえできそうだ」
氏勝は満足げに頷くと、袴の泥を払いながら立ち上がった。そうしてまた、遠くに清洲の城下を眺める。
「清洲からこの程度しか離れていないにも関わらず、でございますぞ?」
そう言ってはじめて、正信もようやくわかったようであった。そう、この礎石はまったく地震の影響を受けていないのだ。ほんの数里ほどのところにある清洲には、今なおあれほどの爪痕が残っているというのに。
「何が……違うのでござろうか?」
「地の硬さでござる。清洲が濡れた砂の上であれば、ここはまるで大きな一枚岩の上のようなもの。ゆえに少々地が揺れたところでびくともしないのです」
氏勝は大きく息を吸い込んで、静かに目を閉じた。そうして風の音を聞きながら、ここに建つ城を脳裏に思い描く。ほとんど垂直にそそり立つ堅固な石垣。四方を固める櫓。遥か天を突き、世を睥睨する巨大な天守閣。
「叔父上……?」
また正信の困ったような声が聞こえた。されどその声もどういうわけか遠く、すぐに風に流れて消えてゆく。
目を開く。そして振り返る。背後にも、ただの荒れ地が広がっているだけだった。されど氏勝の目には、慥かに見えた気がした。大手門から続く一本の広小路。整然と、見渡す限りに並んだ甍。高く聳える寺社の高塔。
―――どうか、この半三郎にお任せくださいませ。
耳の奥で声が響いた。それは遠い昔のおのれの声だった。
―――若殿がために、ここに新たな都を築いて御覧に入れましょう。京や大坂にだって負けぬ、某と若殿の都でございます。
「きっと誰もが羨み……夢に見、遠路を押してやって来るでしょう。奥州からも、九州からも……あるいは唐土からも」
耳の中に響く遠い声に合わせて、いつしか氏勝は歌うように口ずさんでいた。そうだった。それは約定であった。誓いであった。いつの日か必ず、この手で我らの都を築くと。
「叔父上……どうなされたのですか、叔父上」
気が付けば正信に、肩を掴んで揺さぶられていた。氏勝の気が触れたとでも思ったのであろう。ようやく我に返った氏勝は、心配そうな若者の肩を軽く叩いてやった。大丈夫だ、案ずるなと。
「まことにどうされたのですか、叔父上。何か思い付かれたことでも?」
「知れたことでござるよ。ここに、新たな城を築くのです。我らの殿が拠とするに相応しき城を」
正信はぽかんと口を開き、しばらく二の句を継げずにいた。ややあって、はっと我に返って言った。
「そんな……では、清洲はどうするのです。城下町は?」
「残念ですが清洲は棄却しましょう。城下町もそっくりそのまま、こちらに移すことになります……そう、遷府でござるよ」
清洲は規模だけで言うなら、日の本でも有数の城下町だ。町人たちの数はおそらく五万、いや十万にも迫るであろうか。その町をそっくり移すというのはなるほど、無茶なことだと思われるかもしれなかった。されどやるしかない。
「そして都を拓くのです。京や大坂にも、あるいは大御所さまが築いた江戸にも劣らない、我らと殿のための都を」
正信は今度こそ言葉を失ったのか、もう何も尋ねてはこなかった。その目は驚きと困惑に、きょろきょろと頼りなく揺れている。されどその底にはかすかに、期待に胸を躍らせているような輝きも見て取れた。
「ところで竹腰どの……かつてここに建っていたという城は、何という名でござったか?」
「えっと……」と、正信はまた手の中の絵図を覗き込んだ。そしてやや迷いながらも、その名を口にした。「那古野でございます。尾張、那古野城」
那古野。その名を声に出してみて、氏勝は「良き名でござる」と頷いた。




