(十二)
そうしてまた時は流れて慶長十二年(一六〇七年)三月。長い闘病の末に、尾張中将忠吉が清洲にて息を引き取った。享年二十八という、あまりに早過ぎる死であった。
この四男の死は覚悟していたとはいえ、家康にも少なからぬ衝撃を与えた。それだけ、家康も忠吉のことを買っていたということである。武勇に優れ頭も回り、やや一本気になところもあったがそれゆえ人望も集めていた。おそらく将の器という点では、子らの中でも群を抜いていたであろう。このまま秀忠を傍で支え、万一のことあらば上に立つこともできる。忠吉がいればおのれも心置きなく隠居できると思ってもいた。されどその皮算用も、これでご破算である。
とはいえ、家康には悲嘆に暮れている暇もなかった。忠吉に代わる尾張の国主を、早急に定めなければならなかったのである。誰でもいいというわけではない。東海道と中山道、さらには伊勢街道が交わり、江戸と京・大阪を同時に睨むことができる尾張は、まさしく日の本という扇の要とも言える地だからだ。
それゆえあの石田治部少も、兵を挙げたのちはまず尾張を落とそうと躍起になった。それを許さなかったことが、あの天下分け目の大戦に勝ちを得た要因でもあったとも言える。さらに遡る長久手の合戦も、秀吉と家康による尾張の争奪戦であった。家康がそこで一歩も引かなかったからこそ、わずか二万の兵で十万の羽柴勢と渡り合うことができたのだ。
尾張とはそうした土地である。右府信長と太閤秀吉、ふたりの覇者を輩出したのも決して偶然ではないのだ。
そしてもしまた豊臣を奉じ、幕府に牙を剥く者があれば、必ずや尾張を押さえにかかるであろう。そのとき万が一にも尾張を託した者が寝返れば、江戸は逆に喉元へ刃を突き付けられることとなる。戦は泥沼の長期戦となり、西国の各地で火の手が上がろうと手も足も出ない。ようやく築いた静謐もあえなく瓦解し、世は再び乱世へと逆戻りであろう。そんなことは決してあってはならなかった。
ではその尾張を、誰に任せるか。それが難題であった。本多平八郎はすっかり老い、榊原式部も井伊兵部もすでにいない。それぞれの後継者たちは受け継いだ領地を守るので精一杯で、とても要を託せるだけの器ではなかった。といって伊達や上杉、前田や黒田も信ずるに能わない。
「お呼びでございますか、大御所さま」
障子の向こうから声がした。忠吉の死を聞き付けて、駿府へと駆け付けてきた男の声だった。
「入るがよい、七之助。今さらわしに要らぬ気遣いをするな」
そうして入ってきたのは腹心の中の腹心、平岩主計頭親吉であった。家康は行燈の火に照らし出されたその顔を見て、この男も老いたなと感慨に耽る。親吉もきっとおのれを見て、同じことを思っているであろう。
されど家康が心の底から信を置ける相手は、もうこの者しか残っていなかった。盟友ということでは本多佐渡守もいまだ存命だが、あれは別の意味で信用できないところがある。
「右兵衛を尾張に封じることとした」
前置きもなく家康は言った。親吉もそれに異を唱えることもなく、「さようでございますか」とだけ答える。
「おぬしには犬山城十万石を与える。せがれを援けてやってくれ」
親吉は狭い部屋で膝をつき合わせるように座ると、静かに平伏して答えた。
「これが最後のお務めと心得、身命を尽くさせていただきます。どうぞお任せを」
「最後などと言うな。おぬしには右兵衛が一人前になるまで、まだまだ頑張ってもらわねばならぬのだからな」
家康がそうぼやくと、ふたりは小さく声を合わせて乾いた笑いを漏らした。その笑い声は、薄暗い部屋の中にまるで嗚咽のように響いた。




