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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
三. 尾張清州の泣きどころ
40/99

(十)

 新将軍体制への移行はつつがなく進み、幕府による支配はなお盤石に見えた。家康は駿府城へと居を移し、大御所として新将軍を後見、そして補佐してゆくという。そうして駿府にあった五郎太丸は、伏見から拠を移してきた長福丸、鶴千代丸らとともに、直に父親の薫陶を受けながら育まれることとなった。

 かつての主が帰還した駿府城は人も増え、すっかり賑やかになった。気のせいか城下にも活気が増したような気さえする。まるで江戸がそのままこの地に移ってきたかのようだった。

 お亀の方もずいぶんと表情が明るくなった。阿茶の局をはじめとする他の側室たちも勢揃いし、よく集まっては仲睦まじげに歓談している。そのさまが、氏勝にはどうしても理解ができなかった。相手が天下人とはいえ、かの女らはひとりの男の寵愛を競っている者同士なのである。

「何をそんなに訝ることがあるのです。私たちはみな、何も偽ってなどおりませぬよ」

 しかしそれを尋ねてみても、お亀は不思議そうに首を傾げるだけであった。

「まあ、そなたにはわからぬやもしれませぬな。されど私たちはかの大戦(おおいくさ)の折には、淀城にて身を寄せ合って助け合い、大御所さまの勝利をお祈りしていた者同士です。そして戦勝を聞いたときは、みな泣きながら抱き合ったものでした」

 そう言われてしまえば、氏勝としてももうそれ以上は何も言えなかった。かの女らもまた戦場のただ中で、ともに死線を潜り抜けたのだ。その繋がりはきっと、余人には想像できぬものなのであろうと得心するしかなかった。

 五郎太丸も、年の近い兄弟たちといつでも会えるというのは嬉しいことのようだった。このところは氏勝が庭木を切り出して作った小さな弓で遊ぶのがお気に入りで、それを見た長福丸が興味を示したので、城の中庭に出て熱心に教えてやっている。どうやら同じものをもうひと張り作る必要がありそうだと思いながら、氏勝はそれを微笑ましく眺めていた。

 思いは長福丸の傅役である安藤帯刀(たてわき)も同じだったようだ。ときおり中庭に現れては、睦まじげに遊ぶ幼い兄弟を目を細めながら見つめている。かの者は今も家康の側近として忙しく政務に走り回っているのだが、長福丸の成長を見守るのがその励みにもなっているようだった。

「聞いたぞ、信濃守。浅野の姫君との婚約をまとめたのはそなただそうだな」

「いえ、そのようなことは。みな大御所さまのお力添えあってのことにございます」

「謙遜するでない。まこと、よき働きをしたものよ。そう……五郎太丸さまも長福丸さまも、これよりは幕府と諸大名との橋渡しをしていかねばならないお立場じゃ」

 逆にそうでなければ、この子らが拠って立つ場すらなくなってしまう。それは帯刀もわかっているようであった。

「そういえば、加藤肥後守のところにも姫君が生まれたそうじゃな」

「ほほう……ではその姫を、長福丸さまのお相手に?」

「さて、そう急ぐことでもなかろう。良きことかな、と思ったまでよ」

 厳めしい中にもちらりと人の好さげな笑みを見せて、帯刀は惚けた。されど親豊臣派の両翼ともいえる加藤、浅野両家と徳川が縁戚となれば、ますます天下は安寧に近付くであろう。そして五郎太丸と長福丸はその安寧の要であり、おいそれとは手出しもできなくもなるはずだった。

 

 

 ただし、明あれば暗あり。たとえこの世の春を謳歌している徳川家にあっても、慶事ばかりは続かぬものだ。

 尾張中将こと家康の四男・忠吉(ただよし)が、病に倒れたのである。どうやら関が原で鉄砲傷を受けた際に弾丸が体内に残り、その鉛の毒が五年かけて全身に回ったためとのことだった。

 その病状は重く、ひとたびは危篤にまで陥ったほどだった。医師らの懸命な治療によってどうにか一命を取りとめたものの、なお予断を許さぬ状態が続いていた。

 そんな中で年が明け、慶長十一年。いよいよ五郎太丸も元服の儀を迎えた。烏帽子親である平岩主計頭と大御所家康、さらには駿府へと参上してきた徳川重臣たちの前で、五郎太丸は立派に儀を終え、合わせて宣下された官位とともに、これよりは右兵衛督(うひょうえのかみ)義利(よしとし)と名乗ることとなった。

 諱の「義」の字は八幡太郎義家、あるいは九郎判官義経などにみるように、源氏の将に多く使われたものである。家康としてはこの字を諱に使うことで、徳川が源氏の血筋であると世に知らしめようとしたものと思われる。(のちに頼将(頼宜)・頼房に使われた「頼」の字もまた同様である)

 その夜駿府にて開かれた宴席にも、義利は母のお亀の方とともに臨席した。宴が深夜に及ぶとさすがに眠そうではあったが、気丈に最後まで凛とした姿を崩さなかった。

 翌朝、氏勝は呼び出しに応じて大御所家康の自室を訪った。家康はことのほか上機嫌であった。夭折(ようせつ)した仙千代の弟である義利が、無事に元服を迎えることができたことが、よほど嬉しかったのであろう。

「信濃守、大儀であった。よくぞ五郎太を立派に育ててくれた。主計頭もたいそう満足しておったぞ」

「ありがたきお言葉、痛み入ります」と、氏勝はにこりともせずに平伏する。

「だがわかっていると思うが、これからが肝要よ。傅役の務め、今以上に励むがいい。宜しく頼むぞ」

 そう言いつつ、家康はじっと観察するがごとき目を氏勝へと向けてきていた。はたしておのれの何を慥かめようとしているのかわからず、内心で戸惑っている。

「さて、おぬしの処遇であるが……」家康はじっと氏勝を見たまま続けた。「新たな禄として、近江蒲生(がもう)の二千石を与えよう。少ないと思うかもしれぬが、今はこれで堪えるがよい。他に何か望むことはないか。代わりと言っては何だが、ある程度であれば融通を利かせてやっても良いぞ?」

 望みと言われても、氏勝には特に思い当たらなかった。慥かに萬寿丸も生まれて物入りではあるのだが、とりあえず今の禄で十分賄えている。

「ではひとつだけ、お許しいただきたき儀がございます」

「無理難題でなければの。申してみよ」

「はっ……今は恐れ多くも信濃守という官位をいただいておりますが、できましたら父が称していた大和守を、おのれも継げたらと常々願っておりました。勝手ではありますが、今後そう称すことをお許しいただきたく存じまする」

 かつて戦乱甚だしき頃は、武士が名乗る官位は正式に宣下を受けたものばかりではなく、多くが自称であった。氏勝の父大和守時慶も、また主内ヶ島兵庫頭もそうである。ならばおのれも勝手にそう称しても構わぬであろうが、一応は断りを入れておくべきと思ったのだ。

 されど家康はしばし思案したのち、憮然とした顔で「……ならぬ」首を振った。

「……さようでございますか。ご無理を申し上げまして……」

「徳川の者が官位を自称など許せるはずもない。しかと宣下を受けられるよう、朝廷に働きかけてやる。ゆえ、しばし待つのじゃ……大和守よ」

 家康はそう続けて、ほんのわずかに口角を上げた。氏勝はおのれの勝手な申し出が受け入れられたことに気付き、また平伏する。

 正直を言えば、大和守という呼称にさほど執着していたわけではない。ただ単に、いまだに信濃守と呼ばれることへの据わりの悪さが拭えなかっただけだ。かといって折角下賜された官位を返上することもできず、それならばいっそ父と同じものを、と願ったまでのことだ。却下されるならされるで、別にそれでよしと思っていた。

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