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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
一. 肥前名護屋に水はなく
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(一)

 岩が剥き出しになった眼下の水際に、絶え間なく白波が打ちつけている。風はべったりと湿っていて、まるで手足に絡みついてくるかのようだった。

 日はまだ高く、降り注ぐ夏の日差しが海面を青々と照らしていた。右手に大きく見えるのは対岸の可部という島とのことで、高台の上には呼子という集落があるらしい。その向こうの水平線にぼんやりと浮かぶのは、壱岐か。さすがに彼方の唐土までは、いくら目を凝らしても見えぬであろう。

 山下半三郎氏勝(うじかつ)はこびりついた潮を落とすように頬を擦ると、気鬱げにひとつ息をついた。そうしてぽつりと、「やはり、落ち着かぬわ」とひとりごちる。海なるものは、いまだ好きにはなれなかった。何しろ二十を過ぎるまで、それをおのが目で見たことすらなかったのだ。

 かような場所で、おのれはいったい何をしておるのか。ときどき、それがわからなくなる。故地を追われて、すでに七年が過ぎていた。それからはあたかも地を這うように、ただただ今日と明日の糧を得るためだけに生きてきた。そうして今こうして、唐土(もろこし)を望む地の果てで、あてどなく海を見ている。この先に何があるのか、はたして何かがあるのかもわからぬまま。

 後北条氏を下して天下の一統を成し遂げた秀吉は、関白を甥の秀次に譲って太閤を称すると、さらなる戦を求めるように唐入りを宣言した。そうして出兵の橋頭保として、ここ肥前名護屋(なごや)に大坂にも匹敵する巨城を造営し、従えた諸将を集結させた。その数は実に三十万とも四十万とも言われている。そして先の四月、小西摂津守の兵を先鋒として、続々と大軍勢が海を渡って行った。

 渡海勢は順調に兵を進め、わずかひと月足らずで朝鮮の王都である漢城を攻め落としたという。さらに勢いのままに朝鮮全土をほぼ手中に収め、いったんは女真なる部族の土地まで足を踏み入れたものの、そこで明国軍の反撃に遭い、戦線は膠着状態に入っているらしい。そうして戦がはじまって三月が過ぎ、この七月になっても状況は変わらぬままである。ただ前線の士気はなお旺盛で、月明けにも明領に対して大規模な攻勢を掛ける手筈とも伝え聞いていた。

 されどここに至っても、氏勝には何とも莫迦げた話であるとしか思えなかった。遥か海を越え、言葉も通じぬ民を従えて、いったい何になるというのか。仮に切り従えることが出来たとして、この先治めてゆけるのか。あまりに途方がなさ過ぎて、もはや悪い夢としか思えなかった。何しろこの日の本はほんの二、三十年前まで、無数の小国に分かれて争っていたのだ。それがようやくひとつにまとまったばかりだというのに、どうしてすぐに海の外まで攻め込んでいかねばならない。今はまず、足元をしっかりと固めておく時期であろうに。

 あるいは、だからこそなのか。世にはいまだ、乱世から醒めることができぬ猛者たちで溢れている。たとえ秀吉が太閤の名の下に惣無事令を轟かせたとしても、その荒くれどもをいつまで抑えられるものか。それに太閤とて、もう先は長くない。ではその亡きあとはどうなる。

 それゆえこの唐入りによって、荒くれどもに戦を与えようとしているのか。そう考えればいくらかは理が立ちそうな気もした。力を持った諸将の目を外へ向けさせることによって一枚岩とし、その間に国内の足元も固めようとしているとしたら。五大老のうちの大納言家康、加賀宰相利家、越後宰相景勝といった重鎮をあえて国内に残していることも、それならば説明がつく。

 それがこの戦の本当の目的ならば……太閤の本当の興味は海の向こうにはないのか。だとすれば、この先戦はどうなる。と、そこまで思案を巡らせたところで、氏勝の耳にふと弾んだ声が響いた。

「それで、どうなる。これからどうなるというのだ、半三郎?」

 傍へと目をやると、邪気のない瞳に爛々と好奇心をたたえて見上げてくる顔が見えた。されどそれも、すぐに湿った風にかき消されて散ってゆく。

 その刹那の幻に、心は冷え冷えと醒めていった。そうして氏勝は最後に残った熱を吐き出すように、小さくため息をつく。

「どうもなりはしませぬよ、若殿」

 口をついて出たつぶやきは、おのれでも驚くほどに陰鬱とした響きがあった。そう、こんなことを思案したところで詮のないこと。たとえどうかなるとしても、もはや我らには関わりのないことでござる。氏勝は心の中で、幻に向けてそう続けた。

 そのとき、ふと嗅ぎなれぬ匂いが鼻を突いた。と同時に、胃の腑が図らずもぐうと鳴る。そうして氏勝は、おのれが空腹であったことを思い出した。人の身というのは何ともお目出度く出来ているらしく、心はいくら陰鬱であっても腹は減るものだった。

 匂いはどうやら、下の浜から漂ってくるようだった。氏勝は躊躇いつつも、岩肌に掴まりながら下へと降りてゆく。そうしてまるで隠されたように岩場に囲まれた小さな浜に、男が数人ばかり車座になっているのを見付けた。波打ち際には、ここまで乗ってきたらしい小舟が繋がれている。火を焚いているようで、煙が海風に乗って細くたなびいてきていた。

 男たちが氏勝に気付いて、弾かれたように立ち上がった。驚かせてしまったことに気付いて、慌てて浜に飛び降りると、両手を広げて振ってみせる。

「待ってくれ。逃げることはない」

 男たちの身形はどれも貧相で、蓬髪に褌ひとつの者もいる。おそらくはこのあたりの漁師であろう。漁師たちの中には近郷の集落を襲う賊もいると聞いていたが、刀を差していないところを見るとそれとも違うらしい。ならばいきなり大小を差した武者が降りてきて、恐れるなというのも無理な話であった。

 それでも氏勝は匂いの正体を知りたくて、精一杯の笑みを浮かべてみせる。おぬしの笑い顔は笑っておるように見えぬ、と日頃言われているのは承知の上で。

「我はただ、その……今おぬしらが焼いているものは何なのか、それを知りたかったのみにて。どうか教えてはくれまいか?」

 男たちは腰を浮かせた姿勢のままで、訝しげに目を見合わせていた。そちらに向かって、氏勝はなおもゆっくりと近付いてゆく。

「いったいそれは何なのだ。見たところ、魚でもないようだが……」

「何ばぁ……おい、烏賊(いか)も知らんとか?」と、男たちのひとりがようやく口を開いた。

「烏賊?」と、氏勝は首を傾げた。もちろん、山育ちとて烏賊ぐらいは知っている。「だが烏賊といえば、もっと薄くて固いものではないのか?」

「それは干物たい」と、別のひとりが堪らず噴き出した。「何ばぁ、生の烏賊を見たこともなかとか?」

 続いて、他の男たちも口々に勝手な物言いを交わしはじめる。いくらかは、警戒も解けてきたようだった。

「生っ白い顔しとるけん、どこぞの若君ではなかと?」

「いやいや、着とるもんはそう立派なもんではなか。若君には見えんばい」

 そのとき、氏勝の腹の虫がまたぐうと鳴いた。その音にとうとう、男たちの顔から怪訝な色が消えた。

「……腹、減っとると?」

 氏勝は大きくひとつ頷いた。

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