(九)
時は流れ、慶長十年(一六〇五年)の春を迎えていた。此の頃徳川家には慶事が続いており、長福丸の生まれた翌年には続けて鶴千代丸(のちの水戸中納言頼房)が生まれ、その翌年には中納言秀忠の正室・お江の方が竹千代(のちの三代将軍家光)を生んでいた。秀忠には先に女子が三人いたが、長子であった長丸はわずか二歳で夭折し、いまだ嫡子がいなかった。それだけに竹千代の誕生は、徳川家にとって何よりも明るい材料であった。
ちなみにこれに先立つ慶長八年、お松も駿府にて念願の男子を出産している。子は氏勝の幼名と同じく萬壽丸と名付けられ、すごぶる元気に育っていた。お亀の方も甥の誕生をことのほか喜んでいて、わざわざ城下に足を伸ばして顔を見に来るほどであった。婚儀より九年にして初子というのはずいぶんと遅く、さんざんお亀より嫌味を言われていた氏勝も、ほっと胸を撫で下ろしていた。お松はこの後氏勝との間に、さらに四男三女をもうけることとなる。
そうして江戸に幕府が開かれて、三年目に入った三月のことである。家康は中納言秀忠と十六万の軍を率いて上洛し、みずからの将軍職辞職と、その後任として秀忠の推挙を朝廷へ奏上した。そして翌四月、将軍職の禅譲は果たされ、中納言秀忠は二代将軍となったのである。
氏勝らはその知らせを、駿府にて聞いていた。この禅譲について事前に知っていた者は家中でもわずかであったようで、動揺する者も少なくなかった。お亀の方もそのひとりで、おのれはそれも知らされぬ程度なのかと落ち込んでもいた。
それに対してお松のほうは、むしろ家康のことを心配していた。
「上さまのお加減はいかがなのでしょう。もしもお身体のことが理由でしたらと案じられます」
「その心配は無用だ」と、氏勝は答えておいた。「大御所さまはなお軒昂。此度のことは、あくまでも政としての理由あってのこと」
お松はそう聞くと、「さようでございますか」とあっさり得心していた。その理由を詳しく知りたいとは思わないのかと問えば、「私が知っていても詮なきことゆえ」とのみ答える。まったくこうしたところは、まことにあのお亀と姉妹なのかと訝りたくもなる。
当の氏勝はといえば、今回のことは藤七よりすでに知らされていた。かの者はすっかりお亀の方の女御衆の中に馴染んで、それでいていつ抜け出しているのか、江戸の情報もしっかりと仕入れてきていた。
「織田、豊臣の失敗を見てきたゆえの決断でございましょう。なるほど慎重な男でございますな」
藤七は家康の考えについて、そう推論していた。信長と秀吉が築いたそれぞれの政権が一代で簒奪を許してしまったのは、ひとえに後継者が脆弱に過ぎたためだ。
信長の嫡子であった中将信忠は本能寺の変にてともに命を落とし、残った三七信孝、三介信雄は到底覇者の器ではなかった。秀吉の嫡子内大臣秀頼はいまだ幼少である。ゆえに家康はおのれの目が黒いうちに政権を後継に譲り、後見としてその体制を盤石なものに固めようとしているのだと。
実はそれと似たようなことを、いっときは秀吉もやろうとしていた。甥の秀次を後継者と定め、関白職を譲っておのれは太閤としてそれを支える形をとっていた。されどその体制は秀頼の誕生とともに瓦解してしまう。邪魔になった秀次は切腹に追い込まれ、そして幼い秀頼を育てる間もなく秀吉はこの世を去った。
家康はそれを見ていて学んだのであろう。関ヶ原の失態があったにせよ、嫡男は秀忠であるという姿勢は決して揺らがないと内外に示す必要があった。ならばここで、将軍の座を譲ってしまうのが効果的であろうと考えたのだ。今よりさらに老いが進み、まことに身体の自由が利かなくなってきてからでは、その効果も薄くなってしまう。
「中納言さま……いや、上さまの不安もこれで晴れることであろう。五郎太丸さまにとっても喜ばしいことだな」
「さて、さて、さて」と、藤七はまた小馬鹿にしたように笑ってみせる。「相変わらず山下さまは甘うございますな。五郎太丸さまと長福丸さま、さらに鶴千代丸さま……みな、竹千代さまとさして齢も違いませぬよ」
「何が言いたい……まさか」
「そう。一度権力を握れば、次はそれを確実におのが子へ継がせたいと思うものです。それを脅かす者は、いったいどなたでありましょうや?」
藤七はそう不吉なことを言うだけ言って、ひらひらと手を振りながら去って行った。




