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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
三. 尾張清州の泣きどころ
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(八)

 そうして家康からの同意を得ると、氏勝はすぐに駿府を発ち、紀州へと向かった。

 紀伊守幸長は突然の来訪に驚きながらも、和歌山城にてみずからそれを出迎えた。そして春姫を正室として迎え入れたい旨を伝えると、いっそうの驚きを顔にありありと浮かべた。

「それは本気で申しておるのか、山下どの?」

「むろん本気にござる。紀伊守さまのご存念をお伺いしたく思います」

 幸長は険しい顔で腕を組み、しばし考え込んだ。ややあって、何か苦いものを噛み締めたかのような声で言った。

「それはお春を質として差し出せという謂に受け取ってよろしいか」

「この婚儀に、そうした側面もあることは認めまする」

 氏勝は顔を上げ、幸長の厳しい視線を真っすぐに受け止める。されど一歩も引かず、毅然として続けた。

「されど正室としてお招きするからには、我らがお方さま。何ひとつ不自由な思いはさせませぬ」

 そう言葉を重ねてみても、幸長の表情は晴れなかった。眉根に皺を寄せ、きつく口を引き結んだまま、またじっと黙り込む。答えを急くことではないので、氏勝も無言で待ち続けた。

「悪い話でないことはわかっておる」長い沈黙のあとで、幸長はようやく口を開いた。「ただ我らの本意は先に申した通り。徳川に膝を屈するも、すべては内府さまがためよ。もしも徳川と豊臣が一戦に及べば、我も命に代えて内府さまをお守りいたす所存。その場合、お春はどうなる?」

「そうならぬための婚儀にございます。先に千姫さまが豊臣に嫁がれたことと併せても、両家の(よしみ)はいっそう強きものとなるでしょう。天下はますます静謐、豊臣がためにも良きことかと」

 幸長はなおも詰るように言った。「この話、言い出したのは上さまか。あるいは御母堂か?」

(それがし)にございます」

 そう答えると、幸長はまた驚きを露わにした。「そなた、禄はいかほどだ」

「先の移封に伴い、千に加増していただきました」

端禄(はろく)ではないか。徳川家ではたかが千石の者に、子息の婚儀を決めさせるのか」

 とはいえ、その声音に呆れの色はなかった。こちらの言葉を疑っている様子もない。ただただ、驚いていた。

「そなたはいったい何者なのだ……山下信濃守」

 問われても、答えは決まっていた。他に答えようもない。「五郎太丸さまの、傅役筆頭にございます」

 その返答に、幸長はようやくわずかに表情を和らげた。警戒は薄れ、むしろ氏勝に対する興味が湧いてきたようだった。

「では傅役どの、まことの狙いは何じゃ。そなたはいったい、何を欲しておる」

「こちらも先に申しました通り、我が主は五郎太丸さまただひとり。願うは、主の安寧と弥栄(いやさかえ)のみにございます」

「では問いを改めよう。この話、そなたの主にいったい何の利があるのじゃ」

「三十七万石が浅野家との縁、それが利にならぬと仰せで?」

 そうしてとうとう、幸長は相好を崩した。それでも氏勝は何が可笑しかったのかわからず、硬い表情のまま相対している。

「正直を申せば、我は戸惑っておるのじゃ。娘の相手として、五郎太丸さまは申し分ない。ただ良い話過ぎて、裏があるのかと穿(うが)ってしまうのよ」

「いかに申せば、裏などないと信じていただけましょうや?」

「そのためには腹を割ろうか、傅役どの。まことの言葉を聞かせてくれ」

 幸長が身を乗り出した。そしてじっと、氏勝の目を覗き込んでくる。

「五郎太丸さまのお立場は、さほどに危ういのか」

「さようなことはございません……今は」

「つまり、中納言さまの御代となったときを見越しているということだな」

 それには答えない。答えずとも、通じると思ってのことだ。この若く闊達とした将、頭の回転も速い。

「上さま亡きあとのうしろ盾を我らに……いや、違うな。それには三十七万石でも足らぬ」

 不意に、幸長は目を見開いた。そうしてにんまりと口元を緩め、まるで秘め事を囁くように続ける。

「さてはそなた……徳川と豊臣の安寧、それ自体を質としようとしておるか。おのが主に事あらば、安寧そのものが崩れると。されどそれは、上様が豊臣を滅ぼす気であればまったくの愚策ぞ?」

「いえ」と、氏勝は直ちに答える。「上様にそのようなお考えはありませぬ。と申すより……徳川に、豊臣を滅ぼすことはできぬのです」

「なにゆえそう言い切れる。今の徳川にとって、内府さまと豊臣の家は目の上の瘤であろうに」

「であっても、豊臣は徳川にとっての主家でありました。それを滅ぼすことは下克上。為せば、世は再び乱世へと逆戻りにございましょう」

 これより幕府は徳川の家を、朝廷と並び立つ絶対の権威として確立させなければならないのである。そのためには乱世を完全に終わらせる必要がある。下克上などという乱世の(ことわり)は、自ら否定せねばならない。

「すべては徳川のため。そのために、幕府は内府さまを手にかけることはできぬのです」

「そしておぬしは、その新たな理を質とするわけか……大した胆力よ。たかが千石の身で、徳川と豊臣を手玉に取ろうとはの」

 それには答えない。答えてはならぬことであるからだ。お亀の方にすら、決して気取られてはならぬ謀。ゆえ、静かに頭を垂れて言うだけであった。

「我らの求めるものは同じ。徳川と豊臣、手を携えての静謐。それこそが、互いが守りたきものを守れる道にございます」

「なるほどの……どうやら思っていた以上に面白き男であったようだな、傅役どの……いや、信濃守どの」

 そうして幸長は乗り出していた身を引き、居住まいを正した。そうして両拳を突き、床しく頭を下げる。

「此度の縁談、ありがたくお受けいたそう。どうか我が娘、よしなに頼む」

 

 

 その二月後、浅野弾正長政と紀伊守幸長は再び江戸に上がり、将軍家康と対面した。会談は和やかなうちに終わり、長政はややの方のいる江戸に残って、家康に近侍(きんじ)することとなる。そして三年後の慶長十一年、隠居料として常陸真壁(まかべ)五万石を与えられ、その地で余生を送った。

 その後幸長は、江戸へと出仕する際は必ず駿府へと立ち寄った。『山下氏書上』には、「其以後弾正少殿、紀伊守殿御両人、右兵衛督殿(五郎太丸)御部屋へ度々御出被成候、御取次仕候」とある。よほど将来の娘婿である五郎太丸が気に入ったのか、あるいは氏勝らと意気投合したのか。

 おそらくは、その両方であったと思われる。

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