(七)
お亀の言葉に、将軍家康は顔を顰めて考え込んだ。
「なるほど、浅野家のう……今となってはわしとしても、何も含むところはないのだが」
「されど、江戸では中納言さまに門前払いをされたと聞きました。大戦の功労者に、それはあんまりではございませぬか?」
家康の杯に酒を注ぎながら、お亀はなおも尋ねる。かの女がそこまで知っていることに、家康は少し驚いた顔を見せた。お亀とて戦のことなどよくは知らぬが、浅野家のこれまでの経緯については氏勝から子細に講釈を受けてきていた。
「あれもそこまで深い考えはなかったであろう。もしかするとまことに手が離せなかっただけやもしれぬ。それとも、わしの内心に考えを巡らせ過ぎたか……」
もしも家康が弾正長政を赦していないのであれば、留守中に勝手に歓待するわけにもいかない。そう過剰に気を遣った可能性もあった。日頃から秀忠は、家康の顔色を窺ってばかりいる。まことにおのれが将軍の座を継げるのか、よほど不安なのであろうか。
「では中納言さまに、そのことをちゃんとお伝えくださいませ。その上でもう一度浅野さまに、江戸へ上られるようお命じになればよいのです」
「それはできぬ」家康は杯を呷りながら答えた。「含むところはない。されどまた、浅野を特別に扱う気もない」
「……何ゆえでございますか。それでは、浅野さまが可哀想ではありませぬか」
そうしてお亀は声を潜め、氏勝から預かった焙烙玉をひとつ、家康の耳元に投げ付けた。
「仕物(暗殺)云々などという話は……元より実のない言い掛かりであったのでございましょう?」
家康はまたぎょっと目を見開いて、それからお亀を睨み付けてきた。それは今となっては明らかな、誰もがそうと知りつつ口には出せぬ、公然の秘密と言えた。暗殺計画などというものは最初からなく、上杉に対する言い掛かりと同じ、すべては石田治部少を炙り出すための謀であった。
されどそれでも家康は怒ることなく、あくまでも閨での睦言のごとく、お亀の耳元に囁き返した。
「言い掛かりゆえ、今さら言い掛かりと認めることもできぬのだ。察せよ」
なるほど、とお亀も奇妙に得心がいった。すべてが上手く運んだ今だからこそ、その絡繰りを明かすことはできぬということだ。上手く運んだからこそ、表向きの筋書きはすべて真ということにしておかねばならない。
「では、どうすれば浅野は救われまするか?」
「ずいぶんと浅野に肩入れするものよの?」
そう問い返されても、お亀はあらかじめ氏勝が用意しておいた答えを返す。
「何しろわざわざ駿府まで足を運んで、五郎太にも礼を尽くしてくださったのです。出来ることがあれば、お力になって差し上げたいではありませぬか」
ふむ、と家康はその真意を探るように、お亀の目を覗き込んだ。されどすぐに得心したのか、目を落としてしばし思案する。ややあって、低い声でゆっくりと言った。
「質が……足りぬかの」
「質、でございますか?」
「うむ。弾正がさらに身内を質に差し出すようであれば……こちらも、それには応じねばならぬであろうな」
「……とのことでございました」
説明を終えると、お亀は氏勝の顔を見ながら晴れ晴れと笑みを浮かべた。その骨折りに、氏勝も素直に「ありがとうございました、お方さま」と平伏する。
「礼には及びませぬ。これもすべて、五郎太のためなのでございましょう?」
そう言いつつも、お亀の顔にははっきりと「これで借りは返しましたよ」と書いてあるかのようだった。まあ氏勝としても、そういうことにしてくれて構わない。
「しかし……質でございますか。それは少々、難題でございますね」
「そうなのでございますか。私にはさほど難しいこととも思えませんでしたが……」
「いえ……浅野家はすでに、弾正どののご正室を江戸に送っているのでございます。その上さらにとなりますと、紀伊守どのも同意してくださるかどうか」
諸大名が家康の元に人質として身内を送ることをはじめたのも、奇しくも件の暗殺計画が切欠であった。弾正長政とともに首謀者として疑われた前田肥前守利長が、父大納言利家の未亡人にして生母の芳春院(おまつ)を、先んじて家康の元に人質として差し出したのである。それによって前田家は家康の勘気を鎮め、領地を守ることができた。
それを見た長政も、同じように正室であるややの方を江戸に送ることで、おのが疑いを晴らそうとした。されどこうしたことは概して二度目からは効果が薄れてゆくもので、結局それでも長政は赦されず、蟄居と隠居を迫られることとなってしまった。つまり最初から家康は長政に対して、それでは足りぬと伝えていたのだ。されどそれ以上に人質を差し出すのは、長政もさすがに屈辱と感じたようだった。
その上今の浅野家には、他に人質として差し出せる者がいないというのも実のところである。幸長の正室の麻阿の方は池田勝入恒興の娘であったが、すでに若くして亡くなっている。いまだ嫡男のいない幸長は、現在前田家と利家の娘である与免姫の輿入れを諮っているが、いまだ話はまとまっていないとのことだ。つまり幸長もおのが室を差し出そうにも、その室がいないのである。
「では、仕方がありませんね。何、上さまとて今すぐ浅野をどうこうしようというわけでもないでしょうし……」
されど浅野の家中はこれからも、いつ徳川から改易されるか、あるいは大幅な減封を受けるかという不安の中で過ごさねばならない。そうなれば家康がこれより築こうとしている泰平の治世にとって、捨て置くことのできぬ火種ともなりうる。
「お方さま」と、氏勝は意を決して切り出した。「某に、ひとつ考えていることがあります。聞いていただけますか?」
「何ですか」と、お亀は眉を顰めながら尋ねてきた。「どうも、あまり良くない予感がするのですが」
「紀伊守さまにはいまだ嫡男はおられませぬが、二歳になったばかりの姫君がおりまする」
春に生まれたゆえ、名は春姫と付けられたとか。されど難産であったがため、生母である麻阿の方はそれにより命を落としてしまった。それもあってか幸長は、この姫をたいそう可愛がっているらしい。
「して、その姫がどうかしましたか。さすがに上さまも、さように幼い姫を人質になどとは申されますまい?」
「そうではありませぬ。その姫を、五郎太丸さまのお相手といたすのはいかがでしょう」
氏勝の突然の言葉に、お亀はぱちぱちと目を瞬かせた。その意味が、すぐには理解できなかったようだ。
「お相手と申すと……五郎太に嫁がせよということですか?」
さよう、と氏勝は頷く。「むろん、祝言はまだ先で結構。今は許嫁という形にいたしましょう。つまり将来、姫を質にいただく約定を交わすのでございます」
武家の婚儀は政にして謀。臣下の者が姫を主家に嫁がせるとは、人質を差し出すのと同じである。されど将軍の一族の、それも正室としてであれば、十分に浅野家の顔も立つ。今すぐに姫を差し出さずともよい、ということで抵抗も少ないであろう。
「さすれば浅野家は徳川の縁戚となります。上さまとて無碍にはできますまい。浅野家は救われ、世もまたひとつ静謐に近付きまする」
されどお亀はまだ複雑な顔をしていた。齢四つにして、息子の将来の伴侶を決めてしまうことに抵抗があるのか。おそらくはまるで、幼い我が子が政の道具にされているかのように感じているのであろう。
「三十七万石の姫君では、お相手に不足でしょうか?」
「そうではありません……ありません、が」
「すべては五郎太丸さまのためにございます。道具にしているのは、あくまでもこちらでございますぞ」
決して五郎太丸を道具にしているのではない、五郎太丸が、浅野の姫君を道具にするのである。そう強く繰り返すと、ようやくお亀の方は弱々しく笑みを浮かべた。
「そなたが、あの子のことのみを思って言っているのはわかっております」そう言って、どこか眩しそうに目を細める。「いいでしょう。上さまにもそのように伝えておきます」




