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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
三. 尾張清州の泣きどころ
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(二)

 奥の院にて平謝りする氏勝に、お亀はなおも笑っていた。

「本当に構わぬのですよ。五郎太は楽しそうであったではないですか。小伝次もあのような明るい顔、久しぶりに見ました」

 おそらくまだ慣れぬ場で気を張っているであろう正信のことも思っての勧めだったので、お亀にそう言ってもらえると氏勝としても安堵するところであった。

「じっさい、ふたりともこの蒸し暑さは辛いことでしょう。私も京で暑さには慣れていましたが、それでも堪えます」

 お亀とお松の故郷でもある京も、ここと同じように山に囲まれて風が通らぬ土地であった。夏の暑さが厳しいことも話に聞いている。しかしそんなふたりですら辛いということは、やはりこの地の気候は相当に厳しいものなのだろう。

「おまけに、どうにも汚らしくていけません。何しろ城内にまで、蛙や蜥蜴が入り込んでくるのですよ。これでは病が蔓延してもおかしくないことでしょう」

 病と口にしたところで、お亀の面差しにはっきりと暗い色が過ぎったのがはっきりと見て取れた。この女性はいかに五郎太丸が元気に育っていても、先の子である仙千代を喪った悲しみは癒えはしないのだろう。きっとこれからもずっと、その影を背負って生きてゆくのだ。それが、もう抱くこともできぬ子の慈しみかたであるかのように。

「心得ております」と、氏勝はお亀を力付けるように言った。「万一のこともなきよう、大殿も駿府から玄斎(げんさい)どのを遣わしてくださいました。些細なことも見逃さぬよう、よく申し付けてくださったようです」

 岡部玄斎は、長年徳川家に仕えてきた医師である。特に薬研(やげん)に長けているとのことで、自ら薬草の研究に取り組んでいる家康にとっても良き相談相手であるそうだ。

「もちろん我らも、五郎太丸さま御為に身命を尽くします。どうかお方さまも、心安んじられますよう」

「安んじて欲しいのであれば、せめてやんわりと笑うくらいはできぬのでしょうか、信濃。いつもそのような堅苦しい顔をされていては、その言もどこまで信じてよいことやら」

 お亀が拗ねるように言った。慥かに相手を安堵させたいのであれば、無理にでもにっこりと笑いかけてやるだけでもずいぶん違うであろう。されどそれは、氏勝にとってはもっとも苦手なことであった。

「かたじけなく思えど、某のこの顔は生まれつきでございますゆえ」

「……はたしてどうやら」と、かの女性はなおも続ける。「(ねや)の中ではそうでもない、とお松は申しておりましたが?」

 氏勝は一瞬言葉に詰まり、視線を頼りなく泳がせる。この男のそんな顔を見るのも珍しかったのか。お亀はいいものを見たとばかりにほくそ笑んだ。

「……お松の戯れを、あまり真に受けませぬよう」

「戯れですか。まあ、そういうことにしておきましょう」

 氏勝を揶揄って少しは気が晴れたのか、お亀の顔からは先ほどの翳りは消えていた。されど、まだ安堵はできぬようであった。

「ともあれ、そういうことでございます」

「と、申されますと?」

 いったい何が「そういうこと」なのかわからぬまま、氏勝は訊き返した。

「ですからこの城のことでございます。私とて、あの子の為に最善を尽くしたいではありませんか。ゆえに大殿には、文にて国替えを願い出ておきました」

「……は?」

 と、氏勝はまた言葉を失った。目の前の女性がいったい何を言ったのか、すぐには理解が追いつかなかったためだ。

「ですから、国替えを願い出たのでございます。駿府でも常陸でも結構、何なら西国でも構いませぬ。ここでさえなければ、どこでもよろしいのでと」

「本気でございますか?」

 やっとのことで口にできた問いが、それだった。いくら五郎太丸が家康の覚え目出度いといえど、そんな我侭(わがまま)が通ると本気で考えているのか。我らはあくまで関東を守る緻密な戦略の一環として、この忍城を拝領しているのだ。それをただ「暑いから」というだけで放り出すことなど許されるわけがない。

「そんなことを願い出たところで、大殿も相手にしないでしょう。むしろ不興を買うだけでございますぞ」

「女子の私が言ったところでそうでしょうね。ですから、そなたの進言ということにしておきました」

 いったい今日は何度絶句すればいいのか。氏勝はもう驚くのにも疲れて、大きく肩を落とした。

「大殿には、何と?」

「忍城は堅城と言われておりますが、とてもそうは思えない。小田原攻めのとき落ちなかったのは、単に石田治部が戦下手だっただけのこと。おそらく大殿であれば、半分の兵でも三日で落とせていたことでしょうと」

 慥かにそれはおのれが考えていた通りのことだ。されどそれを、じっさいに口に出して言ったことはない。この女性はどうしてこう、妙なところだけ鋭いのか。

「ここはもう忍城は棄却して、関東の防衛線は再構築したほうがよい。信濃守はさように申しておりました……と。何か文句でもありますか?」

「大ありでございます」と、さすがに氏勝も憤慨する。「いったい何を考えておられるのか。勝手にも程がありまする!」

 この氏勝が声を荒らげるのは余程のことなのだが、それでもお亀は平然としていた。

「忘れましたか。そなたは私にひとつ、借りがあるのですよ。それを使わせてもらったまで。これでようやく帳消しです」

「あのとき、礼を申すとも言っていたではありませぬか?」

「根に持っているとも伝えましたよ?」

 どうやら何を言っても堪えないとわかって、氏勝はそれ以上文句を並べるのを止めた。すでに願い出てしまったものはもう仕方がない。あとはただ、このことが何か問題を引き起こさねばいいと願うだけだ。

「して、大殿より返答は?」

 お亀はなおも楽しげに微笑んだまま、ゆっくりと首を振った。

「まだ何とも。もちろんこんな願い出がすぐに通るとは、私とて思っておりません。されど考慮はしてくれることでしょう。聞けば尾張の下野守(しもつけのかみ)(家康の四男・松平忠吉(ただよし))さまも、はじめこの忍城を拝領したのち、すぐに清洲へと移られたとか。五郎太とてそうならぬとも限りません」

 関ヶ原の大勝利以降、内府家康は朝廷へ征夷大将軍の宣下を働きかけるのと同時に、支配体制確立のために諸大名の大幅な国替えを行っている。西軍に付いていた毛利や上杉は、赦免されたものの所領を減じられ、また東軍に付いたものの豊臣恩顧の大名たちは、江戸から遠い九州や四国へと転封された。そうして関東周辺は譜代の家臣たちで固め、隙なく江戸を守らせている。されどその再配置はまだ完了したとはいえず、家康も頭を悩ませているようであった。それを見て、まだ再考してもらえる余地ありと考えたのかもしれない。されど。

「いかに某の名を使ったところで、どうにもなりはしないと思いまする。どうぞこの件は、これきりにしていただきとうございます」

「では信濃、そなたはこのままで良いと申すのか。五郎太に何かあってからでは遅いのですよ?」

 それとて、今すぐどうなるということでもない。とにかくあとひと月ふた月を凌げば、徐々に過ごし易くもなるはずである。それを我慢することも、ひとかどの武士になるために必要な過程かもしれない。何しろあの内府家康は、幼い頃から過酷な運命を耐えに耐えてきた男なのだ。この程度のことで騒いでいるようでは、その家康に顔向けもできぬであろう。

 ただこのときはまだ、氏勝もさほど深刻には受け止めていなかった。どうせ家康とてまともに取り合うまい。国替えというのは、そんな単純なものではないのだと。

 

 

 されど明けて慶長八年(一六〇三年)一月、耳を疑うような知らせが入った。江戸の家康より下知があり、五郎太丸は忍城を出て甲府に入り、甲斐二十五万石を拝領することになったのである。

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