(一)
城下の雑木林からであろう、遠く蝉の声が聞こえてくる。されどその響きさえ、まるでじっとりと湿っているようにさえ感じられた。氏勝は額に浮いた汗を軽く掌で拭うと、上段の間へと続く廊下を進んでいった。
慶長七年(一六〇二年)、六月。五郎太丸が家康よりこの武蔵国忍城十万石を拝領して、はじめての夏が来ていた。氏勝も命じられた通り、甲斐での諸事の引継ぎを終えると、年明けにはこの地へと居を移した。与えられた城下の屋敷には、お松をはじめ家人たちもみな越してきている。お松は姉とまた同じ地に住まえることがよほど嬉しかったようで、道中ではみずから荷物のひとつを担いで進むほど浮き浮きとした様子であった。
されどこうして夏を迎えてみて、この地の問題にあらためて直面していた。それは暑さである。
利根川と荒川に挟まれた扇状地に建ち、おのずと堆積して出来た自然の堤を利用した城ではあるが、三方を山に囲まれているせいか風が通らない。その上周囲は沼が点在する湿地帯のため、たえず空気はじっとりとした水気を帯びている。それが夏の陽光に熱せられるためか、他の土地では経験したこともなかったような蒸し暑さに見舞われていた。これにはお松も参っているようで、屋敷に帰るたびにどうにかならぬかと不平を零されている。
参っているのはお亀の方も同様のようで、このところはあまり食も喉を通らぬらしい。そんな中五郎太丸はひとり、父親の我慢強さを受け継いだのか、ぐずることもなく堪えていた。それでも顔を見れば、辛そうなのは明らかだ。
「これは叔父上……よくいらしてくださいました」
上段の間に入ると、氏勝に気付いた小伝次正信が立ち上がった。氏勝はそのままでよいと手で制し、五郎太丸の前に進み出て膝をつく。
「殿。ご気分はいかがでございましょうか」
そう尋ねると、五郎太丸は表情を和らげて大丈夫とばかりに頷いた。しかしその額には玉の汗が浮かび、たえず頬を伝い落ちてゆく。
「ご無理はなさいますな。思うことがあれば、何でもこの信濃守か小伝次にお申し付けくだされ」
「わかった。かたじけなくおもう」
まだいくぶんはたどたどしくも、五郎太丸ははっきりと答えてきた。おそらく齢三つにして、周囲に手を掛けさせまいと我慢することが身に着いてしまってしまっているのだろう。氏勝の目には、その健気さはむしろ痛々しくも見えた。
城主の居室であるこの上段の間にも、やはりむっとするような熱気と湿気が充満している。少しでも涼を取ろうと小窓もすべて開け放っているようだが、風などまったく入って来ない。
「竹腰どのはいかがか。辛くはござらぬか?」
「いえ……我もこのくらい、どうということも……」
そう言いつつも、この正信とて我慢しているのがわかる。こうして城に上がり高禄も与えられているが、その父助九郎は一介の足軽であった。本来ならかような場に居られるはずもないと思っているのだろう。この者も、不平を言いたくとも言えぬのだ。
「さようですか。某はもう、暑くて堪りませぬ」
氏勝は遠慮なくそう言って、懐から扇子を取り出した。そうして大袈裟にぱたぱたと扇ぎはじめる。
「特にこの湿気には参りますな。かような土地であると知っていましたら、傅役など引き受けませなんだ」
「お……叔父上?」
正信がぎょっとしたように氏勝を見た。おそらく戯れであろうと察してはいるのだが、この叔父が例によってにこりともしないので真意が探れないのだった。
「……竹腰どの」と、氏勝は振り返らずに言った。「思うところがあるなら遠慮なく申されよ。さもなければ、殿も不平を零せぬ」
正信ははっと気付いたように目を見開き、それから照れたように笑った。氏勝はそちらに小さく頷きかけると、手にしていた扇子を五郎太丸に手渡す。
幼き主君はそれを手に取り、しばらく不思議そうに眺めていたが、やがて先ほどの氏勝を真似ておのれを扇ごうとする。それでもまだ慣れていないのか、うまく風を起こすことができないようだった。
「殿、お貸しください」
正信が五郎太丸に近付き、その手から扇子を受け取った。そうしてやんわりと、主に向かって風を送りはじめる。淀んでいた空気にさざ波が立ち、五郎太丸は心地よさげに微笑みを浮かべた。
氏勝は満足して頷き、言った。「それでよいのです。この蒸し暑さは尋常ならず、素直になるがよろしいかと」
と、氏勝は小窓の向こうに目をやった。それはまあ……と、正信も観念したようにため息をつく。
「暑さもですが、何よりこの湿気が堪りませぬ。外は見渡す限り沼地でございますからね」
あたりに沼が点在しているというより、沼の中に城が浮かんでいると形容したほうがいいくらいだ。浮城とはよく言ったものだ。
「ここはかつて北条方の成田家が居城としていたのだが、太閤の小田原征伐の際、あの石田治部に水攻めに遭ったという。さもありなん、という土地柄ですな」
「それは聞いております……されど成田家は五万の石田方に囲まれながらも、小田原落城までこの城を守り切ったのでしたか」
正信が氏勝の言葉を受けて続けた。なるほど、よく学んでいるようだ。されどそれは城が堅かったというより、石田治部が戦下手であったためと言うべきか。いざ中に入ってみれば、なるほど堅い城なのかもしれないが、綻びはところどころにある。おそらく攻め手が太閤秀吉であったなら、あるいは内府家康であったなら、その半分の兵で容易く落とせていたであろう。
「守るには良いのかもしれぬが……住むとなると大変ですな。内府さまの元、平穏となった世においては、そちらのほうが大事でしょうに」
正信は城攻めの話に興味があるようで、もう少し成田家の話をしたかったのかもしれない。ゆえに少々名残惜しげではあったが、すぐに「……そうですね」と相槌を打った。
「叔父上が我らほどの頃、かようなときはどうしていたのでございましょう」
「そうですな……たとえば、川で水浴びでもしていましたかな。何しろ山育ちなもので」
正信はその言葉に、「水浴びでございますか」と嬉しそうに笑った。この若武者もここに来るまでは、そのように奔放に過ごしていたはずだ。
「城下の集落の者たちに教えを乞うて、手掴みで魚を捕まえたりもしたものです。みなからは、筋が良いと言われておりました」
「楽しそうですね……叔父上にもそのような頃があったのですか」
とはいえ、今この五郎太丸を連れてさようなことはできない。あの頃も若殿はさすがに許されず、川面を見下ろす曲輪の上から恨めしげに見ていたものだった。氏勝たちも気が咎めて、獲った魚を皆で焼いて、城まで届けに行ったのを覚えている。
「そうですな……されど川では無理でも、行水くらいなら良いのではござらぬか?」
そうして氏勝はふたりを連れて城の中庭に出ると、大きな盥に井戸水を張った。そして褌ひとつではしゃぎながら水を浴びるふたりを、微笑ましげに見つめていた。もっともその顔は相変わらず、傍からは笑っているようには見えなかったが。
しかしやがて、お亀の方付きの女御衆がそれを目に止め、大騒ぎになった。
「こ……これは五郎太丸さま。いったい何をなさっているのですか!」
「行水でござる」氏勝はこともなげに答える。「何か問題でもござろうか?」
「ござろうか!」と、五郎太丸が裸で氏勝の真似をする。それでも女たちは揃って卒倒しそうな顔色で、なおも口々に金切り声を上げた。
「問題どころの話ではございませぬ……ああ、五郎太丸さま、さような格好で……!」
されどそこへ、にこやかな笑みを浮かべたままお亀の方が現れた。そうして楽しげな息子ふたりを見て、眩しいものでも見るように目を細める。
「良いではないですか」と、お亀は女御衆に首を振って言った。「楽しいか、五郎太、小伝次?」
「はい、母上」と答えた正信に、少し遅れて五郎太丸が真似をする。それを聞いてお亀も満足そうに頷いた。
「それは良かったの……では、私もご一緒するとしましょうか」
さらにそう言って帯に手を掛けたところで、女御衆が群がって止めに入った。さすがに氏勝も立ち上がり、その輪の中に加わる。




