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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
二. 飛騨白川は夢のなか
30/99

(十)

 西の丸の会所には、平岩主計頭をはじめ二十人からなる者たちが整然と並び、これからおのが主となる幼君の登場を待っていた。その多くが若武者で、大役の緊張に顔を強張らせているように見える。中でも氏勝の隣に座っている小伝次正信(こでんじまさのぶ)はひときわ若く、まだほとんど童と言っていい。

「肩の力を抜きなされ、竹腰どの。何、此度はただの顔合わせにござる」

 小声でそう言ってやると、若者はまだ顔を引き攣らせながらも笑みを浮かべた。

「さ……さようですね。お気遣い有難うございます、叔父上」

 叔父などと呼ばれるのもまだ慣れないが、それでも小さく頷いてやった。この竹腰(たけごし)小伝次正信は、お亀の方が最初の夫・竹腰助九郎正時(すけくろうまさとき)との間に産んだ子で、五郎太丸の異父兄にあたる。それゆえ齢十にしてすでに五千石を与えられ、小姓頭にも任じられていた。

 とはいえその若さで大役を与えられ、重圧もひとしおであろう。お亀の方からは、この正信の面倒もよく見るよう任されていた。されど齢のわりに所作も堂に入っており、聡明なところも見て取れる。それほど手が掛かるとも思えなかった。

 目を前に向けると、そこにひとりだけ壮年の武者が静かに佇んでいる。顔を合わせるのははじめてであったが、その名はよく知っていた。やはり家康の信任厚い重鎮、安藤帯刀直次(たてわきなおつぐ)である。

 幼くして徳川に仕え、浅井・朝倉と戦った姉川の役にて戦功を挙げて以来、多くの戦に参じてきた猛将であった。さらに同時に政務にも通じ、今は主君の征夷大将軍宣下に向けて奔走していると聞いている。本多佐渡守正信の子・上野介正純こうずけのすけまさずみと並び、徳川家の政務における両翼とも言われている男だ。その直次を名代として送ってきたことからも、このお目見えに対する家康の力の入れようがわかる。若武者たちが緊張するのも無理はなかった。

 やがて会所の戸が開き、平岩主計頭親吉がゆっくりと入ってきた。そうして上座の右側に腰を落とすと、「さあ、若さま。こちらへどうぞ」と促す。

 ややあって、小さな羽織袴に身を包んだ赤子がぎこちなく歩み入ってくる。そしてどうにか転ばずに辿り着くと、親吉の手を借りて上座に腰を下ろした。

 最後にお亀の方がその隣に座ると、親吉が威厳を帯びた声で言った。

「五郎太丸さまじゃ。一同、面を上げよ」

 氏勝も、少し遅れて正信も、その言葉に顔を上げた。そして眼前に座る、おのが主とはじめて向かい合う。

「ごろぉうた……まぁるであるぅ」

 舌っ足らずの調子で、それでも不思議と耳に染み入るような声で、幼君はそう名乗りを上げた。そして再び一同は、静かに首を垂れる。その有り様に、お亀の方が眩しげに目を細めているのがちらりと見えた。

「ここにいる者たちはみな、今このときより五郎太丸さまの家臣となる。心して仕えよ。よいな?」

 一同が声を合わせて「ははっ!」と応えた。その声に、五郎太丸は一瞬びくりと身を震わせる。わずかに目を上げてその顔を窺い見た氏勝は、この幼君もまたひどく緊張しているのがわかった。無理もない。おそらくはまだ何もわからぬままに、大勢の大人の前に座らされて、怯えるなというのも酷な話である。

「山下信濃守、出でよ」

 氏勝は「はっ」と答えて立ち上がった。そうして音を立てぬよう摺り足で、五郎太丸の前に進み出る。されどこれ以上幼子を怯えさせぬよう、十分な間を置いて膝をついた。

「もう少し前へ出よ」と、親吉が促す。されど無礼を承知で、氏勝は首を振った。

「某はここにて……五郎太丸さまも緊張されているご様子」

「よい……もっと前へ。殿は大丈夫じゃ」

 氏勝は顔を上げ、五郎太丸の様子を窺った。慥かに氏勝の不愛想な顔を見ても、それ以上怯えているようには見えなかった。それどころか興味深げに、身を乗り出してこちらを覗き込んでいる。

「……では」と、氏勝は前に進み出た。そうして一間ほどのところまで詰めると、出来るだけ声音を和らげて名乗った。

「山下信濃守氏勝にございます」

「信濃守」と、親吉が続けた。「そのほうを、御傅役(おんもりやく)筆頭に任ずる。しかと務めよ」

 やはり断ることなどできぬか、と氏勝はそっと嘆息する。されどその任は、ここへきていっそう重く感じられていた。目の前の幼君の、触れれば壊れてしまいそうなあやうさよ。おのれごときに、守ることなど本当にできるのかと。

「どうした……信濃守?」

 返答がないことを訝しく思ったか、親吉が苛立たしげに尋ねてきた。仕方なく、氏勝も「はっ」と声を返そうとする。されどそのときだった。五郎太丸が、不意に立ち上がったのは。

「……五郎太?」

 気付いたお亀の方が、慌てたように腰を浮かした。それでもすぐに止めることはできず、幼君はそのままよちよちと氏勝のほうへ歩み寄って来る。しかしその手前で足を縺れさせ、つんのめるように倒れ込んできた。

 氏勝は咄嗟に手を伸ばして、五郎太丸が床に手をつく寸前で受け止める。すぐに親吉とお亀が駆け寄ってきて、幼君を両側から助け起こした。

「危のうございましたな……若殿」

 氏勝がそう柔らかく言うと、五郎太丸が嬉しそうに笑うのが見えた。その顔を見て、お亀が驚いたように目を丸くし、そして氏勝とを見比べた。何のことかわからぬまま、氏勝はなおも幼君に語りかける。

「さあ……どうぞお戻りくださいませ」

 そうしてお亀にも、小さく頷きかける。それを見てようやく我に返ったのか、お亀は五郎太丸を抱き上げようとした。されどそれと同時に、氏勝は右腕がぐいと持ち上げられるのを感じた。見ると、幼君の小さな手がこちらの袖を掴み、しっかりと離さずにいるのがわかった。

「これはまた……気に入られたものだのう」

 親吉もそれを見て、くすりと笑った。されど氏勝に目を戻すと、訝しげに眉を顰める。

「……信濃、おぬし……」

 お亀も幼子を抱き上げようとした中腰の姿勢のまま、また驚いて固まっていた。そのふたりの顔を見て、氏勝はようやくおのれのことに気が付いた。おのれが、我知らず泣いていることに。

―――我とともにいるのだ、いいな?

 そんな声が、耳元で慥かに聞こえた。

 氏勝はおのれの袖にそっと手を伸ばし、細くか弱い指を優しく解いた。そうして顔を隠すようにその場に平伏し、額を床に押し付ける。それでもなお、涙は滂沱(ぼうだ)のごとく溢れて止まらなかった。これはいったいどうしたというのだ。氏勝には、おのれでおのれがわからなかった。

「ご案じめさるな……若殿」言葉が、口をついて出る。「某が必ずや若殿をお守りし、お支えしてゆきます。すべて、この半三郎にお任せくださいませ」

―――ゆめ、忘れるな。

 再び声が聞こえた。それは遠き日の父の声だった。

―――そなたは、そのためだけに生まれてきたのだぞ。

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