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尾張名古屋の夢をみる  作者: 神尾宥人
二. 飛騨白川は夢のなか
29/99

(九)

 会所の板張りの床は、まるで氷のように冷たかった。その上まだ雪の残る道を歩いてきたため、足はほとんど感覚すらなくなっている。されど、それを手で覆って温めることも今は許されない。だからこうして小さな拳をぎゅっと握りしめ、蹲踞したまま主が現れるのを待っているしかなかった。

 やがて襖が開き、女御衆たちが列を作って入って来る。そして最後のひとりの腕には、白川布でくるまれた赤子が抱かれていた。そしてかの女は赤子を上座の脇に寝かせると、足音を立てずにそっと戻ってゆく。

「では、皆の者。もっと近う寄って、夜叉熊(やしゃぐま)の顔を見るがいい。これにて、内ケ島(うちがしま)も安泰よ」

 上座の男が、いかにも嬉しげに顔をほころばせながら言った。そうしておのれも、父に促されて立ち上がる。

「おう、萬壽丸(まんじゅまる)(氏勝の幼名)か。ここにおるものの中では、おぬしが最も齢も近かろう。弟と思うて、可愛がってやってくれぬか」

「そんな……とんでもございません」と、傍らで父が恐縮しながら首を振る。「山下の家は、内ケ島あってにございます。弟だなどと……」

 そんな父をちらと見たのち、一歩前に進んで赤子を覗き込む。手は五歳のおのれよりもさらに小さく、まるで精妙な細工物のようであった。されど身を包んだ白川布をしっかりと掴み、離そうとしない。早くも利かん気の強さを見せているようだ。

「よいか……萬壽よ。このお方が、そなたの主となるのだ」

 父が囁くように言った。赤子に吸い寄せられるように目を離せぬまま、その声をぼんやりと聞いている。

「ゆめ、忘れるな。このお方を守り、支えるためだけにそなたはおる。そなたは、そのためだけに生まれてきたのだぞ」

 何ゆえであろう。その赤子を見ていると、不思議とその言葉にも得心してしまう。自然と首が動き、「……はい」と頷いてしまう。そうだ、おのれの命はそのためにあるのだと。

 

 

 大坂城のとにかく長い廊下を進みながら、氏勝は今朝の夢のことを反芻していた。あれはそう、おのれが若殿とはじめて対面したときのものだ。今となっては記憶の彼方に霞んで、すぐには思い出すこともできないような光景。されど夢はひどく鮮明で、覚えているはずもないことまでやけに生々しく思い出させた。まだ雪の残る春の飛騨の寒さ、氷のように冷たい板床。上機嫌な主君・氏理(うじまさ)の笑顔。はじめて目にする、赤子の小さな手。触れたらすぐに折れてしまいそうで、それでいてしっかりと身を包む布を掴む指先。すべてがまるで今この目で見て、この手で触れているかのようだった。

 いったい何ゆえ今頃、あのような夢を見たのか。もはや思い出しても痛みしか覚えない、たまらなく幸福な情景。そのお陰で、どうにも気分が苛立って仕方がなかった。こんな心持ちのままであの女性に会っては、またつまらぬ舌禍(ぜっか)を引き起こしてしまいそうだ。

 だからといって、このまま引き返してしまうわけにもいかなかった。それでは何のために甲府から、わざわざ大坂まで出てきたのかもわからなくなる。

 慶長六年も半ばを過ぎた秋のことである。関が原の大戦から一年が経ち、誰もが今度こそ戦乱も終わりと信じはじめたのか、世も次第に落ち着きつつあった。その中で内府家康は着々と支配体制を固め、その総仕上げとして朝廷に対し、征夷大将軍の任命を迫っているという。もしもそれが実現すれば、足利幕府の崩壊から三十年を待って、日の本に再び源氏の棟梁が君臨することとなる。形骸化してほとんど力を持たなかった足利幕府とは違い、今度は正真正銘、誰もが認めざるを得ない天下人だ。いよいよこの国はひとつにまとまり、長の静謐を得るのであろうと思われた。

 氏勝もこの一年は、甲斐への移封に伴う諸事に奔走させられていた。それでもみな慣れた土地とあってか、比較的すんなりと進んではいた。主計頭の薫陶のお陰か、新たな禄高に対する不満もそれほどは出なかったのは、裏方としてもありがたいことこの上ない。お松も新しい土地と屋敷に早くも慣れて、ずいぶんと寛いだ表情を見せるようになっていた。

 そんな折、氏勝のもとに大坂のお亀より文が届いた。そこにはすぐに大坂に来るようにとの旨が、丁寧ではあるが有無を言わせぬ調子で書かれていたが、肝心の宛所(あてどころ)(用件)が何も記されていなかった。嫌な予感は覚えたものの、さりとて断るわけにもいかない。氏勝はまたお松からの文を懐に携え、西への旅路に就いたのであった。

 そうして大坂城の西の丸御殿にて、氏勝は一年ぶりにお亀と対面した。淡く藤の柄が染め抜かれた、明るい萌黄色の片身替わりに身を包んだお亀は、ずいぶんと肌艶も良く表情も満ち足りているようだった。

「お変わりないようで何よりです、信濃守」

「お方さまも、お顔の色もよろしいようで。少しふくよかにもなられましたか?」

 ふくよかになった、というのはこの頃の女性に対して、決して悪口ではない。特に家康は、ふくよかで健康そうな女性を好んだとも言われている。

「五郎太丸さまもお元気とのこと、まことに喜ばしき限りにございます」

「やんちゃで手を焼いておりまする。いったい誰に似たのやら」

 そう言いつつも、お亀の表情はやはり明るかった。仙千代は生まれて間もない頃から生気がなく、長く生きられぬということが最初からわかっていたものだった。それだけに、手を焼くほどに元気というのが嬉しくてならないようだ。お亀だけでなく、城の女御衆の顔もみな朗らかに見える。

「して此度は五郎太丸さまのお目見えの儀に、某もお招きいただけたというわけでございますか」

「儀というほどの大袈裟なものではございません」と、お亀は上機嫌に首を振った。「ちょうど主計(かずえ)どのも大坂に来られている由、五郎太と傅の者たちとの顔合わせをしておこうと思っただけです。これから長い関わりになるわけですから、ちゃんと挨拶をさせておかねばと」

「されど、どうして某もその場に?」

 慥かに氏勝は、とうとう顔を合わせることもなかったが、先に亡くなった仙千代の傅のひとりには数えられていた。ただし五郎太丸については、まだ何も命じられていない。

「何を言っているのです」されどお亀は、にやにやと笑いながら答える。「そなたがいなくてははじまりませぬ。何しろそなたは、五郎太の傅役筆頭なのですから」

「……は?」と、氏勝は思わず妙な声を上げてしまった。「今、何と申されましたか?」

「ですから、そなたが傅役筆頭です。以前そう申したでしょう」

「いや……されどあれは、ただの戯れであったのでは……」

「あの子のことで、私が戯れなど申すわけがないではありませんか」

 どうやらお亀のほうは、笑ってはいても本気であるらしい。されど氏勝としてはその責任の重さに、ただ尻込みするばかりであった。

「某などにさようなお役目が務まるは思えませぬ。どうかお考え直し下され」

「そうはいいきません。大殿にももうお許しをいただいております。今さら断るなどとは言わせませんよ」

「されど某には、甲斐での務めもございます。いくらか落ち着いてきたとはいえ、移封に伴う諸事もまだまだ残っており、中途で投げ出すわけにも参りませぬ」

「わかっております。五郎太は大殿から武蔵(おし)城を拝領いたしましたので、年が明ければそちらに移ることになるでしょう。お役目に就くのはそれからで構いません」

「忍城……で、ございますか?」

 その城の名はもちろん知っている。以前過ごした厩橋からも近く、先日会津へと進軍する際に宿営地ともなった場所だ。江戸の北の守りの重要な拠点でもある。

「お松にも久しぶりに会えそうですね。楽しみにしていると伝えてくれますか?」

 それ以上の反駁は許さぬとばかりに、お亀はにっこりと笑ってわずかに首を傾けた。

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