(八)
そうして風雲の慶長五年も押し詰まった十一月二十八日、大阪城の西の丸にて、お亀の方は無事に男子を出産する。
その誕生を、家康はことのほか喜んだと伝えられている。それは当初千千代と付けられた幼名を、あえて命じて五郎太丸と改名させたほどであった。『玉輿記』によれば五郎太丸という名について、家康はみずから「城郭櫓井樓の大壁に大石巨石を積重ぬるに、草尾に五郎太石を以てせざれば叶はざる事なり、その如く天下の草尾は此子也」と説いたという。石垣を支える楔石に例えて、徳川家を、そして天下を支える楔であれかしと願っての命名であろう。されどこの喜びようを、おそらく周囲の者は奇異に感じたのではなかろうか。
徳川内府家康という人物は、我が子、それも男子に対して非常に冷たい男として知られている。嫡子であった長男三郎信康は、信長より武田との内通を疑われた際、申し開きのために生母築山殿とともに自死させている。二男秀康は生まれたのちも三歳になるまで会おうともせず、その後は秀吉の養子としてあっさり手離してしまった。結果的に嫡男となった三男の秀忠に対しても、情愛をもって接したとの記録は残っていない。
ただしこうした親子というものも、戦乱の世にあっては決して珍しくはなかった。武家に生まれた子というのは、家康自身がそうであったように、人質として使われるのが常であったからだ。あるいは主家の命あれば、長男信康のように腹を切らせねばならなくなることもしばしばだった。親が子を愛し、子が親を敬うことすら許されないのが乱世というものだったのだ。
つまり家康は誰にも従わずともよい天下人となったことで、ようやくおのが子を愛することを許されたといえる。それはいみじくも乱世の終わりをも意味しており、その記念すべき年に生まれた五郎太丸は、大袈裟に言えば新たな世の申し子でもあった。かような子が可愛くないはずがなかろう。
そしてこの五郎太丸こそが、のちの尾張徳川家始祖、大納言義直である。氏勝はその報を、厩橋にて庶務に忙殺されながら聞いた。まだその赤子がおのれにとっても、まさに運命の子となるなどとは思いもせずに。
とはいえ家康としては、当初はこの子を八男・仙千代と同じく、嫡子のいない重臣・平岩主計頭親吉を傅役とし、ゆくゆくは平岩家の養子とする腹積もりであった。前述した通り親吉は家康にとって、苦しかった今川の人質時代をもともに過ごした、いわば兄弟同然の存在である。その親吉と同じように、この五郎太丸が嫡男秀忠を支えてくれるといい。そう考えていたのかもしれない。
されど親吉は、この家康の申し出を固辞した。
「おのれの子は、仙千代君ただひとりにございます」
というのが、その理由であったという。残る人間をその菩提を弔いながら過ごし、家が断絶するならそれでよし。親吉はもはや、そう心を決めてしまっているようであった。
もしかするとかの者の内心には、家康の長男であった信康のこともあったのかもしれない。親吉は信康の傅役でもあった。そして信長より謀反を疑われ、信康の腹を切らせなければならなくなったときは、代わりにおのれの首を差し出すよう進言したりもした。されど結局は信康を守ることができず、生涯の悔恨として残っていたのであろう。そのおのれが、またしても主君の子を死なせてしまった。これ以上は何も望む資格がない。さように考えていても不思議はない。
主計頭親吉という男はかように、良く言えば生真面目、言い換えれば融通の利かない堅物であった。そして一度心を決めたら、梃子でも動かぬ頑固者でもある。家康もそのことは知り抜いていたので、それ以上の無理強いはしなかった。それでもどうにか後見人のみを引き受けさせ、傅役はまた別の者を選ぶこととなったのである。
ある夜、家康はお亀に「おぬしには、誰ぞ意中の者などはおらぬか?」と尋ねた。
「五郎太の傅でございますか。私ごときが望みを申してもよろしいのでしょうか?」
「構わぬゆえ訊いておる。わしは七之助(親吉)しか考えておらなかったからのう……」
お亀はしてやったりといった顔でにやりと笑うと、意を決して口にした。
「では、私の義弟などいかがでございましょう」
その言葉に、家康の頭にひとりの男の顔が浮かんだ。冷え冷えと醒めた色の奥に、隠しようのない餓えを湛えたふたつの目。
「なるほど……あの者か」
「はい。義弟は私に借りがございますゆえ、よもや嫌とは言いますまい」
ふむ、と家康は思案する。その若さに一瞬危惧も過ったが、すぐに面白いかもしれぬと思い直す。
「……考えておくとするか」
「どうぞ、よろしくお願いいたします」と、お亀はたおやかに頭を下げる。されどその胸の裡では、すでに傅はかの者と決まっていた。




